昔話や自慢話はしない。「来年はこうしようと思うの」。気持ちは常に未来へ向かっていた (c)朝日新聞社
昔話や自慢話はしない。「来年はこうしようと思うの」。気持ちは常に未来へ向かっていた (c)朝日新聞社

 医師の日野原重明さんが亡くなった。命ある限りエッセーを書き続けると読者に宣言。その約束を守った。シニア世代を最期まで全力でリードした105年だった。

「毎日あるがままに生きています。やりたいことを十分にやる。やりたくないものはない。もうやりたいことばっかりで選択に困るくらい。(中略)現役の現役です。ゴールはない。通過する関所があるだけです」

 2012年4月、エッセー「私の証 あるがまゝ行く」を連載してきた朝日新聞土曜版beの、創刊10周年記念イベントで、当時100歳の日野原重明さんは聴衆にこう語っていた。

 担当編集者になってまだ数カ月だった私は、舞台の袖で「先生、倒れるんじゃないか」とひやひやしていた。座らず、水も飲まず、滔々としゃべりながらステージを歩き回るのだ。聴衆の大爆笑が後押しとなり、語り口も次第に熱を帯びていく。

●103歳で乗馬体験

「日野原先生の存在そのものが奇跡」「これからを生きる勇気をもらえた」。終演後、涙目で語る来場者の女性たちとエレベーターで乗り合わせた時、「カリスマ」という言葉が浮かんだ。

「超遅咲きのカリスマ」だったことは強調しておきたい。端正な顔立ちで洋装の似合った牧師の父を振り返る時は、「若い頃から、父にはかなわないな、と思ってたね」などと語ることもあった。その日野原さんが、老いの引け目にとらわれない、創造的、挑戦的な、新しいシニア世代の生き方を提唱しようと、「新老人の会」を立ち上げたのは00年、88歳の時だ。自らそのモデルとなるべく、明るい色のスーツ、ネクタイをさわやかに着こなし、常に背筋をピンと伸ばした。心臓に大動脈弁狭窄症が見つかり、車イスを使い始めた時も「新しい相棒ができた!」とポジティブだった。

 詩作、俳句、絵本など、様々な芸術表現に臆せず挑んだ。101歳でマンハッタン上空をヘリコプターで飛んで高所恐怖症を克服。102歳の年末カウントダウンパーティーでキレのあるダンスを披露。103歳で人生初の決死の乗馬体験──。「人は、創めることさえ忘れなければ、いつまでも若い」と唱え、自分と同様、身を削って働く日々を送ってきたシニアたちに向けて、第二の人生の妙味を体を張って示そうとした。

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