3月以降、学校法人「森友学園」をめぐる問題が世間の耳目を集めた。私も在京週刊誌の書き手の一人として取材に奔走した。このとき、頭をかすめていたのは「沖縄」との接点だ。

「愛国」を名乗る団体や個人が嫌中・嫌韓をセットで唱える傾向は顕著だが、近年は「沖縄ヘイト」も加わる。沖縄の反米軍基地運動へのバッシングだ。森友学園の籠池泰典前理事長は運営する幼稚園のホームページに、辺野古新基地建設に反対する翁長知事に対し、「親中華人民共和国派」「娘婿も支那の人」などと書き込んでいた。

 すべてでたらめだが、これらはインターネットで翁長知事の名で検索すれば、容易に見出せる「情報」である。

 普天間問題が焦点として浮かび上がった90年代後半以降、沖縄に関する報道は「本土」で増えたが、これに比例して事実誤認や、等身大とかけ離れたイメージが先行する傾向も感じられる。特にヘイト的な言説が目立つようになったのは、翁長県政誕生後だろう。

 こうした背景には何があるのか。

「本土」の人間の深層心理にある、「不平不満と批判ばかり繰り返す面倒臭い存在」という沖縄に対するウンザリ感に呼応している面もあるのではないか。ただ、これだけは確かだろう。基地問題に一番ウンザリしているのは沖縄の人々だ。

 大城立裕の『辺野古遠望』(新潮2月号)は、最近見たヤマト(日本)の「悪意の例」を挙げる。「ある雑誌が『沖縄の嘘』という特集をしていて、沖縄の主張を皮肉る体の記事だけを、数人の物書きに書かせていた。県外移設を好まない他府県人に歓迎されそうな記事である。沖縄の犠牲を当然とみなしている、みずからの不人情と責任感欠如に頬かむりしている」

 大城がつづる諦念のような言葉が胸に刺さる。

 「私が年来考えてきたのが、生きているうちに沖縄の問題は片付くだろうか、ということである。思いついたときにはいくらか期待感もあったが、このごろではほとんど絶望している」

 1925年9月生まれ、齢91を数える作家の偽らざる胸中であろう。

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