残業時間の上限月100時間未満……何とも気分の悪い決着?(※イメージ写真)
残業時間の上限月100時間未満……何とも気分の悪い決着?(※イメージ写真)

 経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。

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 残業時間の上限は繁忙期でも月100時間未満。「働き方改革」論議の一つの焦点だった問題に、こういう形で収まりがつきそうな成り行きになっている。

 100時間「以下」なのか「未満」なのか。この点を巡る労使の攻防に関する限り、「未満」を主張した労組側が意を通した格好だ。だが、もともと連合は100時間を仕切り線にすること自体に強く反発していた。その意味では、そう胸を張れるわけでもない。経団連の100時間ラインを生かしつつ、「未満」での合意を促した安倍首相は、ちゃっかり大岡裁きを決め込んだ気分なのだろうか。

 いずれにせよ何とも気分の悪い決着だ。長時間労働の許容限度はギリギリ過労死ラインに達しない範囲まで。残るは「未満」をどう解釈するかだ。人間の命に関わる問題が、こんなところに帰着してしまう。そのようなことで、偽物の大岡気取りを成り立たせてしまっていいのか。

「未満」を辞書で引けば、「その数に達しないこと」とある。これを「その数に達しさえしなければいい」と読むのか。あるいは「決してその数に達してはいけない」と受け止めるか。「未満」に負けたが、100時間は勝ち取った経団連は、どっちの解釈で行くのか。「未満」を勝ち取ったが、100時間には負けた連合は、どのような構えで「未満」の意味を守り抜くのか。

 そもそも、政府の「働き方改革」は何を目指しているのか。この点について、安倍首相が面白いことを言っている。いわく、「働き方改革こそが、労働生産性を改善するための最良の手段であると思います。働き方改革は、社会問題であるだけでなく、経済問題であります」(平成28年9月27日第1回「働き方改革実現会議」での発言)

 この言い方には二つの意味で引っ掛かる。第一に、社会問題と経済問題が別個に存在するような言い方だ。これはおかしい。人間の営みである経済活動には、おのずと社会性がある。第二に、結局のところ、労働生産性の改善というところに眼目を置いている。たとえ、労働生産性の改善という課題が満足されても、働き過ぎで人が死ぬ可能性を排除できないのであれば、それを「働き方改革」とは言わない。

AERA 2017年3月27日号

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浜矩子

浜矩子

浜矩子(はま・のりこ)/1952年東京都生まれ。一橋大学経済学部卒業。前職は三菱総合研究所主席研究員。1990年から98年まで同社初代英国駐在員事務所長としてロンドン勤務。現在は同志社大学大学院教授で、経済動向に関するコメンテイターとして内外メディアに執筆や出演

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