鉄道の開通がこの街の発展を支えたのは間違いない。どのような歴史があったのか。

 午前11時、西武池袋線の飯能駅で三浦さんと待ち合わせ。開口一番、聞いてみた。なぜ飯能に来たんですか?

「ここに昔、遊郭があったらしいんだよ」

 改札から西武グループが運営する駅ビル・ショッピングセンター「ペペ」を横目に、街に出る。線路伝いに延びる道から、斜めに道が延びていた。その道に入ると、またそこから細い道が直角ではなく不規則に延びる。三浦さんがニヤリ。

「斜めにくねって延びる細い道は、車のための道ではない。古い街の姿がこうして残る街が面白い」

 今日はアタリのようだ。

 まずは、腹ごしらえにランチに。向かったのは、江戸末期創業の「古久や」。武蔵野うどんの人気店だ。木枠のガラス戸を開けると、右手に土間、左手に10畳の座敷が広がる。平日の昼間だが、各テーブルに四つある座布団は客で埋まっていた。

「その土地の老舗でその土地のものを食べる。そこから産業の歴史がわかる」

 これが、社会散歩の鉄則だと三浦さん。うどんのほかに筏師が好んで食べたという団子でも有名な街だが、古くから小麦粉をたくさん作っていたのか。

「米を作るには水が大量に必要。高台まで水は引けないでしょ」

 そうか、ここは武蔵野台地なんだ。農産物のそんな知識もない記者に、三浦さんはあきれ顔。

 腹ごしらえを終え、再び街へ。旧街道を中心に、周辺を歩き回る。目を引くのは、蔵だ。お金持ちがたくさん住んでいたのだろう。かつての材木商か。

●蔵の持ち主は誰?

 ひときわ目を引く蔵があった。併設する建物は大正11(1922)年に建築された飯能織物協同組合事務所。林業だけではない。織物は養蚕地帯であった飯能の地場産業だ。敷地内の説明書きによれば、養蚕及び織物産業が飯能の発展に大きな影響を与え、絹関係の商いで財を成す商人も現れた。なかにはその財を、武蔵野鉄道を飯能の地へ呼び込むことに提供した者もいたという。

 鉄道開通の手がかりも見えてくる。お目当ての遊郭もあった。旧街道から入った路地に、古い元旅館らしき建物があった。

「これは間違いない」

 三浦さんが声を上げる。記者には古ぼけた元旅館にしか見えないのだが……。

「入り口のドアが道に対して45度になっている。これは交渉している様子を外から見えないようにするために、工夫したもの」

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