なにかと話題になるベビーカー問題(※写真はイメージ)
なにかと話題になるベビーカー問題(※写真はイメージ)

 批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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 年始の休暇が終わり、ツイッターの画面を開くと、さっそくいつもの調子で「論争」が飛び込んできた。「初詣ベビーカー論争」である。はじまりはあるユーザーが元旦に投稿した一枚の写真。初詣で賑わう寺院に「ベビーカーご利用自粛のお願い」と大書された看板が出ている。この注意は正当か、日本社会の排他性を象徴していないかと大論争が起きた。ところが数日後に状況が変わる。あるメディアが取材を試みたところ、かつて同寺はベビーカー優先で、専用通路さえ設けていたが、悪用する利用者が多いため閉鎖に追い込まれたことが判明したのだ。論争に参戦した都議は、件の寺院に謝罪したことを明らかにした。

 じつにすっきりしない顛末だが、それにしても思うのは、なぜかくもベビーカー利用の是非が繰り返し話題になるのかということである。むろんこの話題は各人の子育て観を照らす鏡ではある。けれどもそれだけでもなさそうだ。人々がこの話題に熱くなる本当の原因は、むしろそれが各人の「迷惑」観、「権利」観を照らし出すところにあるのではないか。

 迷惑はやめろ、というのは厄介な命令である。それは規則を破るなという客観的な意味とともに、他人を不快にするなという主観的な意味をもっている。この厄介さは欧米由来の「権利」にはない。けれど日本人の多くは、迷惑の話と権利の話を混同している。だから論争が空転する。一方にベビーカーの使用は当然の権利だという人々がいる。他方で権利かもしれないが迷惑だからやめろという人々がいる。そして迷惑だという指摘こそ権利の抑圧だという反発がある。これはベビーカー論争以外でも見られる構図である。

 私見では、この問題は、迷惑の話と権利の話を切り分けることでしか解決しない。権利の主張はときに他人の不快につながる。しかしそれでいいし、権利とはそもそもそういうものだと理解するべきなのだ。ベビーカーを使うと周囲が困惑するかもしれない。それでも使いたければ使えばいい。有休を取ると同僚が嫌な顔をするかもしれない。それでも取りたければ取ればいい。それが権利というものの本質ではないだろうか。

AERA 2017年1月23日号

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東浩紀

東浩紀

東浩紀(あずま・ひろき)/1971年、東京都生まれ。批評家・作家。株式会社ゲンロン取締役。東京大学大学院博士課程修了。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。93年に批評家としてデビュー、東京工業大学特任教授、早稲田大学教授など歴任のうえ現職。著書に『動物化するポストモダン』『一般意志2・0』『観光客の哲学』など多数

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