東浩紀氏は日本の社会が直面する問題において、もっとも深刻なものは社会の保守化でも排外主義化でもなく、どんどんひどくなる「忘れっぽさ」であると指摘する (※写真はイメージ)
東浩紀氏は日本の社会が直面する問題において、もっとも深刻なものは社会の保守化でも排外主義化でもなく、どんどんひどくなる「忘れっぽさ」であると指摘する (※写真はイメージ)

 批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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 新しく本コラムを担当することになった。まずは短く自己紹介させていただきたい。

 ぼくはかつて大学で哲学を研究していた。いまは在野の批評家で、大衆文化論や情報社会論の著作がある。小説も書いたことがある。6年まえに出版社を起業し、「ゲンロン」という批評誌を刊行している。リベラルを自認するが、保守と見なされることが多い。現政権には批判的。しかしデモは参加しないし、信じない。

 最後の一文の説明から始めたい。ぼくがいまもっとも深刻だと感じているのは、じつは社会の保守化でも排外主義化でもなく、どんどんひどくなる「忘れっぽさ」である。

 たとえば相模原障害者施設殺傷事件。わずか半年前の大量殺人事件だが、早くも風化している。1997年の酒鬼薔薇事件や2008年の秋葉原通り魔事件は、数年単位で話題になった。比べると明らかにメディアの構えが違う。かつてメディアの時間はもっとゆっくり進んでいた。ひとつの事件について、月単位年単位の時間をかけて「意味」を解読する余裕が存在していた。いまはだれにもその余裕がない。ニュースはネットで一瞬で拡散し、みなリアルタイムで感想を呟き、そしてすぐ飽きてしまう。犯罪者は異常者で、対策はコストとセキュリティーのバランスで、「意味」なんて役立たないものに頭を悩ませる必要はないというのが、いまの風潮だ。それは日本だけでなく世界全体の風潮でもある。そしてみなテロにすら慣れていく。

 けれどそれでいいのか。ぼくが自前で時代錯誤な批評誌を刊行しているのは、そんな危機意識からである。そして同じ理由でデモも信じないのである。ネットのおかげで、何万何十万もの人々がすぐ動員できるようになった。けれど、そんな数はすぐ忘れ去られる。震災後無数のデモが起きた。でも国民はどれだけを覚えているだろうか。

 いま必要なのは短期的な動員ではなく、むしろ忘却に抗う力だ。言い換えれば「意味」を探る力である。こう記しているあいだに、トルコとベルリンで新たなテロが起きた。意味の理解がなければ、社会は同じ過ちを繰り返す。本コラムではそんな意味を探り続けたいと思う。

AERA 2017年1月2-9日合併号

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東浩紀

東浩紀

東浩紀(あずま・ひろき)/1971年、東京都生まれ。批評家・作家。株式会社ゲンロン取締役。東京大学大学院博士課程修了。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。93年に批評家としてデビュー、東京工業大学特任教授、早稲田大学教授など歴任のうえ現職。著書に『動物化するポストモダン』『一般意志2・0』『観光客の哲学』など多数

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