「力士になったものの、私自身どこかで強くなれないという思いがあったんでしょう。もちろん、それ以上にいつかは漫画家になりたいという思いがありました。部屋に入ったばかりの頃は、兄弟子に見つかり、絵を描く道具を捨てられたこともありました(笑)」

 漫画家への道のキッカケは現役時代に先輩力士が後援会で配るグッズの似顔絵を描いたことだった。それが評判となりスポーツ紙からの依頼で、現役にもかかわらず場所中にイラストを用いたコラムを連載するなど角界でも名物力士として知られるようになった。

 86年に引退。その頃には漫画家デビューともいえる雑誌の連載も決まっていたが、それだけでは食っていけない。

「引退から数年後には“若貴ブーム”もあって、元力士の漫画家としてテレビでも取り上げられるなど、仕事の依頼が殺到し、生活が一変した時期もありました。ただ、ブームはすぐに終わってしまいました……」

 多くの元力士と同じように「ちゃんこしかない」と思ったことも1度や2度ではなく、実際に自身で店を構えたこともあった。ただ、そんなときに背中を押してくれたのが3歳年下の妻だった。

「一度は店をたたみ、当時病気がちだった妻と育ち盛りの2人の子どもを食べさせるために肉体労働に就いたこともありました。でも、あるとき妻が言ったんです。『あなたが本当にやりたいことは何なの?』って」

●50歳を過ぎてから

「当たって砕けろ」で描いた相撲の絵を国技館に置かせてもらえないかとお願いした。すると、少数だが置いてくれることに。

「それが縁で11年に東日本大震災があってからは相撲協会と一緒に各地の巡業を回り、ボランティアで被災地の子どもたちの似顔絵を描いてきました。そうしたことが評価されて2年ほど前からは自分がイラストを描いた商品を相撲会場に置かせてもらえるようになったんです。まさか自分の商品が国技館で売れるとは思ってなかったですし、相撲協会が元力士だった私を“身内”として認めてくれたのが何よりうれしかったですね」

 人気力士が描かれたマグネットは、一場所で約6千個も売れるとか。また、ジャポニカ学習帳の表紙のイラストを手掛けると、そちらも人気を博した。現在はスポーツ紙や雑誌の連載に加え、相撲中継のゲスト解説やラジオ出演と仕事は多岐にわたる。

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