スコセッシ:『沈黙』は信仰そのものだったからです。文化的に異なる世界観、生活感の違い、国による信仰の違いを描きたかった。とにかく「沈黙」を撮りたくて、資金を集めるためにコマーシャルを数本撮ったほどでしたから。

遠藤:映画は本当にできるのかと心配になったとき、考えたのは父の監督への思いです。父はフランス文学が専門だったので映画はいつもフランスかイタリア。アメリカ映画はほとんど見ていなかった。ところが私が20歳だった1976年のある日、家に帰ってくるなり、「今日はアメリカのとても面白い映画を見た。お前も『タクシードライバー』をすぐに見ろ!」って。以来、父はスコセッシ監督のファンでした。「沈黙」はぜひ監督に撮っていただきたかった。

スコセッシ:この映画は私にとって、避難場所としても機能しています。いま、作品の世界観に没入できていて、私にとって何が一番大事なのかを考えさせてくれるからです。

遠藤:父はカトリックの作家として、日本人のサイズには合わないカトリックという洋服を日本人はどういうふうに着るのか、と考えていたようです。キリスト教は日本人にとってやはり文化風土のかなり異なる宗教です。それをどうコントロールしていくかが、父の執筆テーマでした。その一番大きな作品が『沈黙』だったと思います。

スコセッシ:私は古今東西を問わず、共通の価値があることがとても美しいと思いました。人間はどうコミュニケーションするか。何に価値を見いだすか。それをどのように分かち合うか。周作さんのどの作品でも、こうしたことが中心になっている。いま『イエスの生涯』を読み直しているんですよ。

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