ボブ・ディランがノーベル文学賞に値する理由を熱く語ろう

近藤康太郎AERA
 今年のノーベル文学賞に、ボブ・ディランが選ばれた。長年、候補に挙げてきたファンがいる一方、疑問の声も出た。果たして、彼は文学者と言えるのか──。

 ボブ・ディランは詩人じゃない。詩人を演じて、ノーベル文学賞をとった──。

 アメリカの週刊紙に、こんな評論が載った。

 ディランは時代、時代で、「ポップスターは、どうありうるか」というコンセプトで役柄を演じた。あるときはカントリー歌手、あるときはキリスト者、またあるときはジャムバンドのリーダー……。「詩人」という役柄も、そのひとつ、というわけだ。

 ノーベル文学賞にふさわしい歌詞を書くミュージシャンなら、レナード・コーエンや黒人ラッパーなどほかにもいる、とも伝えている。

 分かるような気がする。認めたくない気持ちも、残る。筆者にとって、ディランは驚異の多作家であり、独創的な歌手であり、勤勉な労働者であり、そして、天性の詩人でもある。

 ディランのノーベル文学賞受賞ニュースで、どのテレビ局も「風に吹かれて」を流した。初期の代表曲。

「どれだけ遠くまで歩けば、大人になれるの/どれだけミサイルが飛んだら、戦争が終わるの」

「その答えは風の中さ、風が知ってるだけさ」と続ける忌野清志郎の名訳がある。たしかに反戦、反人種差別のアンセム(賛歌)であるだろう。発表当時、1963年のアメリカの状況を考えれば、誤解のしようがない。しかし、そのメッセージを「反戦」とか「人権」と固定的にとらえた瞬間に、ディランの詩はつまらなくなる。

●遊びが意味を広げる

 メッセージソングが、主張を伝達するため<だけ>のメディアだとするならば、それは一葉の政治ビラに負ける。歌には、旋律やリズムなど、いわば足かせ、限界がある。早口で歌ったり、旋律を崩すのはディランの得意技だが、それでも、政治的メッセージを伝えたいだけなら、歌である必要はない。なにより、そういう個別具体的な歌は、すぐに古びる。

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