高野山の名刹・蓮華定院。今も宿坊として使われていて、真田親子が使った部屋は「上段の間」として保存されている(撮影/写真部・東川哲也)
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高野山の名刹・蓮華定院。今も宿坊として使われていて、真田親子が使った部屋は「上段の間」として保存されている(撮影/写真部・東川哲也)
九度山の町中になる「真田の抜け穴」。石に囲まれた1メートル四方ほどの穴で、実際は古墳時代後期の横穴式石室だという(撮影/写真部・東川哲也)
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九度山の町中になる「真田の抜け穴」。石に囲まれた1メートル四方ほどの穴で、実際は古墳時代後期の横穴式石室だという(撮影/写真部・東川哲也)

 高野山と、その麓に広がる九度山町は、真田幸村が14年も過ごした場所だ。「真田丸」の後半を前に今、ブームに沸くもう一つの「真田の里」を歩いた。

 澄み切った空気が肌に冷たい真言密教の聖地・高野山(和歌山県)。静寂に包まれたこの地の山門には、六文銭をあしらった提灯が掲げられている。真田家の里からは遠く離れているはずだが……。

「真田幸村らが徳川家から蟄居(ちっきょ)を命じられて来たのが、高野山だったのです」と話すのは、添田隆昭(りゅうしょう)さん(69)。幸村が父・昌幸とともに一時身を寄せた古刹・蓮華定院(れんげじょういん)の住職だ。

 1600年の関ケ原の戦いで西軍側についた幸村と昌幸は、敗軍の将として処分を受ける。

 極刑に処されても仕方なかったが、徳川方に味方した兄・信之の必死の懇願で、幸村らは極刑を免れ、真田家の宿坊になっていた蓮華定院に身を寄せた。幸村34歳とされる。

 蓮華定院は鎌倉時代の創建だが、江戸時代に火災で焼け、現在の建物に再建された。ただ、雰囲気はそのままのはずだ。

 幸村らはさぞ窮屈な暮らしを送っていたのだろうと思いきや、「かなり自由な生活が許されていたと思います」と、添田さん。

 それを推測させるのが、寺に残されている書状だ。そこでは幸村が、兄の家臣に「焼酎が飲みたいから送ってほしい」などと頼んでいる。

 空海が眠る高野山の最奥部、奥の院の御廟(ごびょう)辺りを、酒を飲んでご機嫌の幸村が歩く──そんなギャップを夢想してみた。

 ほどなく幸村たちは高野山の麓、九度山(くどやま)町に移る。町内を歩くと、大坂城まで続くと伝わる「真田の抜け穴」や、幸村らが暮らした屋敷跡に立つ真田庵が残っており、今も身近な存在のようだ。ここでも幸村は、近くを流れる紀の川で、釣りを楽しんでいたと伝わる。

 いずれものんきな雰囲気ではあるが、幸村はその陰で、来たるべき日に備えていたようだ。

「近くには『真田淵』と呼ばれるところがあり、そこで水練に励んでいたと伝えられています」

 九度山町産業振興課主任の田村宏さん(36)が教えてくれた。

 さらに、刀の柄に巻く丈夫な「真田紐」を織り、家来に全国各地を売って回らせた。諸国の動静を探るとともに、資金を集める目的だったと言われている。(アエラ編集部)

AERA 2016年5月16日号より抜粋