「ディスコ」跡地に“ほこら”? バブルから30年、様変わりした街を歩く (1/2) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

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「ディスコ」跡地に“ほこら”? バブルから30年、様変わりした街を歩く

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トゥーリア跡地「1億円を超える唯一のディスコ」ともいわれ、六本木でもひときわ精彩を放っていた。死傷者を出した事故で閉店。祠がひっそりと立つ(撮影/今村拓馬)

トゥーリア跡地
「1億円を超える唯一のディスコ」ともいわれ、六本木でもひときわ精彩を放っていた。死傷者を出した事故で閉店。祠がひっそりと立つ(撮影/今村拓馬)

芝浦GOLD跡地ディスコとは一線を画した「クラブ」。フラットなスタイルで「踊り」より「音」を楽しむ流行に敏感な人たちのサロン的存在になった。ライブハウスを経て今はマンション(撮影/今村拓馬)

芝浦GOLD跡地
ディスコとは一線を画した「クラブ」。フラットなスタイルで「踊り」より「音」を楽しむ流行に敏感な人たちのサロン的存在になった。ライブハウスを経て今はマンション(撮影/今村拓馬)

MZA有明跡地再開発の10年近く前に、空間プロデューサーの山本コテツらが倉庫を改装しライブハウスとしてオープン。現在は格闘技用のアリーナで、取材時は声優のライブが開催(撮影/今村拓馬)

MZA有明跡地
再開発の10年近く前に、空間プロデューサーの山本コテツらが倉庫を改装しライブハウスとしてオープン。現在は格闘技用のアリーナで、取材時は声優のライブが開催(撮影/今村拓馬)

 1985年9月のプラザ合意に端を発し、86年末から91年初頭までの狂乱の時代。日本現代史上の特異点として記憶される「バブル期」とは何だったのか。様変わりした街を歩き、その痕跡をたどった。

 東京・銀座7丁目。エルメス、ルイ・ヴィトン、カルティエ、シャネルなど海外高級ブランド店が連なる並木通りに面した場所に、そのビルはあった。銀座らしい落ち着いた雰囲気だ。

「まったく思い出せない。本当にここ?」

 ナビゲーターをお願いした作家の甘糟りり子さんが首をかしげる。1964年生まれの甘糟さんは、バブル期を肌で知っている人のひとりだ。

 目当ての場所は、地下2階。しかし、エレベーターのボタンには地下2階の表示がない。1階にあった画廊の重厚な扉を押し、たずねるも「さぁ……?」と不審な表情。

「ここから下りられる!」

 入り口に戻って様子をうかがっていた甘糟さんが、地下に通じる階段を見つけた。

「M-CARLO 通用口」

 電飾看板に、店名がくっきり。そう、ここは88年にオープンし、瞬く間にバブル期を象徴するディスコのひとつになった「Mカルロ」の跡地なのだ。

バブル期に入る約2年前の84年12月、宮殿ディスコ「マハラジャ」が麻布十番にオープン。男性グループお断り、ドレスコード、黒服従業員、ガラス張りVIPルーム、大理石のお立ち台など、若者の「特別感」を刺激する内装やシステムが話題になり、当初から月7千万円近い売り上げを出した。翌年には六本木「エリア」がオープン。この2店が、六本木ディスコの双璧となった。

 この時、甘糟さんは20代。週末の夜はたいていディスコで過ごしたという。それこそ携帯電話もインターネットもない。雑誌やラジオで情報を集め、六本木のカフェ「イタリアントマト」で女友達と待ち合わせをし、夜更けまで踊った。DJのかける音楽を必死でチェックし、「ここで買い物すること自体がかっこいい」というインポートレコードショップ「WAVE」などで手に入れた。今日より明日の方が絶対に面白い。ワクワクした毎日だった。「Mカルロ」ができたのは、そんな宮殿ディスコブームの絶頂期で、夜遊びの舞台が六本木界隈から銀座へと移り変わった頃。現在はレストラン&バー「水響亭」になっている。

「電飾看板に唯一、店名が残っているんです」


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