アルメニア系の移民の両親のもと、「当時はシャワーすらなかった」。貧しい暮らしだったが、カルチエラタンには、アーティストや学生らの才気があふれていた。

 音楽を愛した父親が営んでいたレストランは、若きミュージシャンをもてなした。アズナブールは9歳にして劇場主に手紙を送り、舞台に立ち始めた。学校を抜け出して、映画館に通うこともしばしばだった。

 選んだのはシャンソンの道。大御所エディット・ピアフに引き立てられ、後押しを得た。 舞台の経験が、ステージの味わいを深める。たとえば、成功を夢見る若き画家をモチーフにした名曲「ラ・ボエーム」。絵の具をぬぐうハンカチひとつで、その暮らしと哀切を演じきる。かつては甘くセクシーだとも評された。そのしわがれた独特の声は、年を重ね、語りかける強さと味わいを増している。

 07年以来となる日本ツアーは、折しも東日本大震災から5年を刻む年だ。母国アルメニアも1988年、大地震に見舞われ、アズナブールはいまも支援に取り組んでいる。

 日本で特別なメッセージを送るつもりはない。

「苦難を乗り越えようとする人は、自ら乗り越える。語りすぎてはいけない。アルメニアでの経験で、よく分かっている」

 ただし、明るく、楽しい気分になってほしいと願う。歌が癒やしになると信じている。(朝日新聞パリ支局長・青田秀樹)

AERA 2016年4月11日号より抜粋