副社長から子会社に出て6年経ち、すでに69歳。窮地に立つ巨大企業を抱き起こす力が自分に残っているのか。

自宅近くの雑木林を歩きながら考えた。よみがえったのはその10年前、乗っていた飛行機がハイジャックされた時のこと。コックピットに乱入した男が、機長を刺し、操縦桿を奪った。機はコースを外れ急降下、思わず死を覚悟した。その時、非番で乗っていたパイロットがドアを蹴破り、操縦桿を取り戻した。間一髪。あの捨て身の行動がなかったら、自分はいま生きていない。

 経営を外から見つめたことで、分かったことがたくさんあった。日立の経営はどんぶり勘定だ。業績の悪い事業を良い事業が埋めている。じり貧と知りながら、うみを出し切る決断ができない。口に出せば抵抗が噴き出る。誰かが断行するしかない。

「社長の仕事は決断すること。副社長以下と決定的に違うのはここです。川村さんは会長兼任を申し出て全責任を負う覚悟を示した」(冨山)

 しがらみを断ち切るべく、副社長も5人のうち3人を子会社から復帰させた。「過去の人たち」がどん底の経営を担えるのか、社の内外に新体制をいぶかる空気があった。しかし、川村体制は悪い事業をありのまま見せ、情報は隠さなかった。その上で、「経営者は本気だ」と知ってもらわなければ、痛みを伴う改革は進まない、と川村は考えた。

 社長就任と同時に、日立が残す事業と外に出す事業を仕分けする「100日プラン」を策定。半導体、携帯電話、液晶パネル、プラズマ、ハードディスクなど日立を輝かせてくれた事業が合併や売却などで外に出された。テレビまで自社生産を打ち切った。黒字でも製品に優位性がなく利益の薄い事業は手じまいし、日立の技術を生かす分野に人とカネを投入。高機能素材や制御機器、モーターから鉄道、通信、電力といった都市インフラなどで勝負する──。

 口数は少ない。自慢話もしない。穏やかだがはっきりものを言う。「私心のない人」と川村は評され、「会社を思って厳しいことを言う」と受け止められた。(本文敬称略)(ジャーナリスト 山田厚史)

AERA  2016年3月21日号より抜粋