1943年11月23日、東京・三田の慶應義塾でも独自の壮行会が行われた。赤れんが造りの図書館脇の正面から塾生らが退出し、近くを行進した(写真:慶應義塾福澤研究センター提供)
1943年11月23日、東京・三田の慶應義塾でも独自の壮行会が行われた。赤れんが造りの図書館脇の正面から塾生らが退出し、近くを行進した(写真:慶應義塾福澤研究センター提供)

 自由な校風の慶應義塾。しかし、太平洋戦争では約2200人もの同窓生が没した。慶應は戦争とどう向き合ったのか。

 学徒出陣から70年にあたる2013年、慶應義塾は3カ年計画で、太平洋戦争時の実相を自己検証する「『慶應義塾と戦争』アーカイブ・プロジェクト」という事業を立ち上げた。証言や資料の発掘作業を進めており、担当する慶應義塾福澤研究センターの都倉武之准教授は、これまでに当時の塾関係者約30人から話を聞いた。

 当時、日本では満20歳以上の男子には一定の兵役義務が課せられていたが、大学生などには満26歳まで徴兵が猶予されていた。だが、戦局悪化に伴い、1943(昭和18)年10月に徴兵猶予が停止され、理工系、師範系などを除く学徒への召集が始まった。
 
 10月21日、東京の明治神宮外苑競技場(現・国立競技場)で行われた文部省主催の「出陣学徒壮行会」は、学徒出陣の大広報行事だった。見送りの学生なども含めて約7万人が参加した模様だが、雨天下で学校ごとに隊列を組み、慶應義塾の大学、予科などからも、かなりの数の出陣学徒が校旗を先頭にずぶぬれの姿で行進した。

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