プロ入り2年目に左太ももを痛め、以降はケガとの闘いにも苦しめられてきた。試合後、体のケアに時間を割くように(撮影/写真部・東川哲也)
プロ入り2年目に左太ももを痛め、以降はケガとの闘いにも苦しめられてきた。試合後、体のケアに時間を割くように(撮影/写真部・東川哲也)

 メジャー志向を公言しての巨人入り、度重なるケガ……。「無理」を前にしても限界を作らず、世界一の頂に上り詰めた。
 引退するときが最高形と心に誓い、今日も挑戦者として野球と向き合う。

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 昨年12月中旬、午前9時ごろ。冷え込みが体に刺さる都内のグラウンドに上原浩治(38)は姿を現した。ゆっくりとしたペースでのランニングのあと、45メートルの遠投をこれもゆっくりと繰り返す。約3時間のトレーニング後は自宅に戻り、1時間強かけて体のケアを行う。シーズンオフでも体を完全に休めることはない。そうしなければ、世界の一線で戦い続けることはできない。トレーニングを共にするパーソナルトレーナーの内窪信一郎(32)が言う。
「今年はいつも以上に長く野球をやっていたので11、12月は体をリカバリーする時間。1月に本格的なトレーニングをするための準備段階です」
 誰よりも長いシーズンを戦い、そしてワールドシリーズを制覇する。野球人なら誰もが憧れるシナリオを、上原はその右腕で引き寄せた。シーズンを、こう総括する。
「驚きの一年でした」
 2013年、1年半在籍したテキサス・レンジャーズをFAとなり、前シーズン借金24で地区最下位に沈んだボストン・レッドソックスを移籍先に選んだ。上原はそこで抜群の安定感を示す。シーズン当初は中継ぎ(セットアッパー)だったが6月以降はリードしている試合の最後を締めるクローザーに定着。救援投手としてはメジャー史上2位となる37人連続アウトなど記録を連発した。緻密なコントロールでシーズン中与えた四球は9個(うち2個は敬遠)、ポストシーズン13試合で与四球はゼロ。地区優勝シリーズ、リーグ優勝シリーズ、ワールドシリーズの決定戦すべてに登板し、最後の打者をすべて空振り三振に──プロ生活15年目で最高のシーズンだったことは間違いない。

●何も変えていないやってきたことの積み重ねが表れた

 上原は、言う。
「何も去年から変えていることはない。これまでやってきたことの積み重ねが出たということ」
 メジャー入り後の上原の成績は浮き沈みを繰り返してきたが、その大きな要因は度重なるケガだった。大リーグ評論家の宇根夏樹が語る。
「メジャー入りしてからもこれくらいの数字は常に出していたが、今年1年フルに働けたことが何よりもよかった」
 10年間在籍した巨人からFA宣言し、09年に学生時代から憧れ続けたメジャー(ボルティモア・オリオールズ)入り。だが5月に古傷の左太もも、さらに右ひじを痛めて故障者リスト入りした。そのシーズンは最後まで登板なし。10年5月に一度復帰するが、再び右ひじを痛めた。
「ケガとの闘いはプロ2年目からなんですが、ケガをした瞬間は間違いなく心が折れてますよ。特に右ひじは初めてでしたし、間違いなく選手生命が終わった、引退かなと、初めてそういう気持ちになりました」
 この年からパーソナルトレーナーを務めている内窪はフロリダでのリハビリの日々を「通夜みたいでした」と振り返る。
 普通ならば復帰は無理と思える状況からなぜ立ち直れたのか。上原は言う。
「反骨心です」
 1998年のドラフトで逆指名した巨人に入団し、1年目に20勝を挙げ投手タイトルを総なめ。エリートコースとしか思えない経歴を持ちながら、上原は常に「反骨心」というキーワードとともに歩み続けてきた。

●高校時代は控え制球力磨く

 父が地元の野球チームのコーチで、2歳上の兄がチームで活躍。兄の背中を見て、上原も野球の道に進んだ。小学校時代に所属していた「寝屋川(現・明徳)アスナローズ」でコーチをしていた奥川康夫(66)は、試合に負けたあと上原がチームメートを誘って自主練習に励んでいた姿を思い出す。
「お兄ちゃんのほうが見どころがあったけど、とにかく負けん気の強さはすごかったですね」
 中学には野球部がなく、小学校の卒業文集には「高校では、野球がある高校に入り、おもいっきり野球をしたいと思っている」と記した。幸い休眠状態だった地元チームが復活し野球を続けることができたが、地元の東海大学付属仰星高校には一般入試で進学。「あまり目立たなかった」と当時の監督、西豊茂(53)は言う。同級生にはのちにレンジャーズで同僚となる建山義紀らスポーツ推薦の生徒が7人いた。上級生に理不尽な蹴りを入れられたこともある。上原は著書『闘志力。』で〈運動部ならではの上下関係には辟易し、やり切れなさを感じた〉と当時を振り返っている。エースとして活躍する建山を遠くに見ながら、バッティングピッチャーとしてコントロールを磨いた。

●巨人で終わらないそう心に誓って流されなかった

 体育教師を目指していたが大学進学で推薦は受けられず、さらに一般受験にも失敗して浪人した。渇望し続けた野球を休み、警備員やスーパーのレジ打ち、引っ越しの手伝いや会場警備などのアルバイトをしながら勉強に明け暮れた。この時期、ジム通いで体を作り上げていたことが幸いした。現役時に上原の実技試験を見ている大阪体育大学野球部監督の中野和彦(55)は、一浪してきた上原の球のキレが増していることに驚いた。
「1年間ボールはほとんど握れてないと言ってたんですが、信じられなかったですね」
 1年時からエースとしてチームをひっぱり、8シーズン中5シーズンを優勝に導いた。だが野球部への援助は少なく遠征費用すら出ずに自腹で、勝ち進むと「もう負けたほうがええんちゃうか」と冗談も出た。
 国際大会で活躍し、上原の視野に入ってきたのはメジャーリーグ。中野はその中のある球団に受諾の電話をするところまで話を進めていた。その日の朝、上原から電話があった。
「返事を待ってください」
 自宅から2時間かけて大学に来た上原は、中野を前に泣いた。
「僕、野球やめます」
 日本のプロ野球とメジャーとの間で、ギリギリまで上原は悩んでいた。中野は声をかけた。
「家に帰って、一番楽しかった時のことを思い出せ。それが野球やったら、野球を続けたらええ。もう少し考えてみろ」
 数日後、上原は巨人入りを表明。逆指名会見では「メジャーでやるにはまだ自信がない。日本で実績を作ってから」と公言し、バッシングも受けた。
「隠すほうが僕はいやなんで。今の子はメジャー行きたいって言っても叩かれませんからね。僕はジャイアンツを踏み台に考えているとか書かれましたけど」
 上原は言う。
「野球界って、最初に甘い汁を吸ってしまって、そこから抜け出せなくなるんですね。後から気づいても遅い。ジャイアンツは注目度も高いし自分も勘違いした部分もありましたけど、メジャーでやりたい、ここで終わりたくないという目標は常にあったので、周りに流されないようにと思ってやってきました」
 04年オフにポスティングシステム利用を直訴し、退けられたことも。「勘違いされる部分も多かったですね。自分勝手とかつきあいが悪いって思われたりもしましたけど」と振り返る。

●とんでもなく給料の高い選手がいる絶対負けたくない

 FA権取得まで待ってのメジャー入りは、上原の「反骨心」を再加速させるきっかけにもなった。最初に所属したオリオールズとは2年総額1千万ドルで契約したが、同級生で同時期にFAした川上憲伸(当時・中日)はブレーブスと3年2300万ドル。「憲伸や(高橋)由伸(巨人)ら同級生の動向はいつも気になっていました。彼らが結果出していたら、自分は何をしているんだと。そう思ってリハビリ期間も乗り越えられました」と振り返る。
 アメリカで戦い続けるモチベーションは何なのか。
「汚い話になりますけど、先発ピッチャーとか野手の給料がとんでもなく高いんで、僕らどんだけいい成績おさめようが絶対かなわないことなんで。でも、グラウンドに立てば全然関係ない、みんな同じ条件。絶対に負けたくないですね」
 立ちはだかる壁が高ければ高いほど、上原は燃え上がる。家族をボルティモアに残しボストンではホテル暮らし、一日の大半を野球場で過ごす今を「幸せ」と断言する。名門ながら前年最下位に沈んだチームを立て直す──そんなシチュエーションを与えられ、上原の「反骨心」は最高に花開いた。
 自分で限界を作らない、上原はそう繰り返す。目の前の敵に、過去の自分に、そして年齢による限界説に勝ち続けたい。
「自分のピッチングはまだ完成していないし、常にまだ自分には伸びしろがあると思っています。やめた時が、自分の最高の時と思っていますから」
 ボクシングなどの挑戦者の立ち位置である青コーナー。小学校から今まで、上原は常にそのコーナーに身を置いてきた。世界一の頂を掴み取った今もなお、上原は青コーナーに立ち続ける。
(文中敬称略)