2010年1月掲載の朝日新聞インタビューで。撮影の折、信頼する長年の秘書が山崎さんの唇に少し紅をつけた。写真を本人も気に入り、焼き増しを求めてきたという (c)朝日新聞社 @@写禁
2010年1月掲載の朝日新聞インタビューで。撮影の折、信頼する長年の秘書が山崎さんの唇に少し紅をつけた。写真を本人も気に入り、焼き増しを求めてきたという (c)朝日新聞社 @@写禁

『白い巨塔』『華麗なる一族』『不毛地帯』…。名作を次々と世に送り出した、希代の小説家が逝った。「泣いて、怒って、ケンカして」の作家人生。

 ここ10年来、原因不明の全身の痛みに悩まされながら、この8月から「週刊新潮」に長編小説連載を開始、だが9月29日に呼吸不全で亡くなった。88歳。いかにも山崎さんらしい「半世紀に及ぶ作家人生の幕の引き方」だった。

「私の作品は、取材が命」と本人も書いた通り、取材の鬼ぶりは有名だった。「沖縄密約事件」をテーマにした小説『運命の人』(09年)担当編集者で、02~03年の沖縄取材に同行した文藝春秋の小田慶郎さんによると、取材は1日4~5カ所、しかも一度のインタビューが2時間に及ぶハードさで、「時間が空くとむしろ落ち着かなくなるタイプ」だった。

「取材相手の話に引き込まれると、山崎先生は涙を流すほど話の中身に没入する。先生の熱意の純粋さに相手は心を動かされ、『そんなに熱心なら、もっとしゃべろうか』と口を開きだす。『聞かれる喜び』を感じるようになるのです」

 取材相手とともに泣き、ともに怒るだけではない。「武勇伝」にも事欠かなかった。『大地の子』(1991年)の取材で会った新日本製鉄の斎藤英四郎会長(当時)の失礼な態度と、木で鼻をくくったような答えに激怒、「私を、そこらの作家と一緒にしないでください! もう結構です!」と憤然と席を立った。

「私の作品は、万年筆の先から血が滴(したたる)思いで書いている」と語っていた山崎さん。

「インタビューでは、昔の作品の取材についてもよく覚えておられました。いかにも山崎さんらしく、相手の対応のひどさに自分がなぜ怒り、どう怒ったか、から始まるんです」(朝日新聞の文芸担当記者としてインタビューした加藤修さん)

 徹底した取材を下敷きに、大胆なフィクションを織り交ぜて小説化するスタイルは、時として摩擦も招いた。『運命の人』で主人公のモデルになった元毎日新聞記者の西山太吉さんは「フィクションである以上、登場人物はモデルとされた人間の実像とは違うものになる。このことでは彼女と対立もしたし口論もした。だが100万、200万人の読者を常に意識し、作品世界に引きずり込む手腕は天才的なものだった」と話す。

「小説ほど面白いものはないですね。人間ドラマですものね。ですから私の場合、素材に商社を持ってこようが、医学界を持ってこようが、金融界を持ってこようが、やっぱり人間ドラマなんです。人間が人間ドラマを書けるということは、こんな楽しい、血もしたたるようなことないですよ」(84年、故・松本清張との対談で)

AERA 2013年10月14日号