もはや誰もが持っているのが当たり前になりつつある、携帯電話。しかし一方で、そうした状況に警鐘を鳴らす人もいる。非ケータイ三原則「持たず、使わず、持ち込ませず」を貫くジャーナリストの斎藤貴男さん(55)は自身が携帯を持たない理由について次のように話す。

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 私はこれまでケータイを持ったことがありません。とはいえ、普段はパソコンで原稿を書くし、蔵書が調べられる国会図書館のネットサービスはとても便利。素晴らしい技術を全否定するつもりはありません。不携帯の最大の理由は、私の美意識の問題ですが、あまりにも進んだ技術を手にすると人間は謙虚さを失ってしまうからです。

 以前は世の中に対して働いていた自制心が、インターネットの普及とともに薄れました。さらにそれを携帯することで、職場や友だちとつながっている安心感を得られる半面、根拠も何もない全能感を抱きがちです。私自身、権力を批判したり戦争反対を訴えるたびにネット上で「非国民」「金正日の手先」などと罵詈雑言を浴び、耐えられないような思いをさせられることがしばしばです。手が勝手に動き、反射的に人を傷つけるのは、人間が人間じゃなくなっている。いまや世の中の主役はケータイそのものであり、それを提供するNTTなどのケータイ会社になった。人間の存在感が薄れています。

 人間力の劣化は若い世代だけでなく、政治家にも広がり、アカデミズムやジャーナリズムも引きずられている。素晴らしい技術を使いこなすほどの人格を誰しも持っているわけではありません。インターネットはまだしも、ケータイは100年早い。私たちの人格が追いつかないのです。

 普段、取材のアポや出版社とのやりとりは固定電話です。行動履歴が記録される交通機関のICカードも使いません。いまや少なくなった公衆電話を探して、何時間もさまよい歩いたこともあります。外線が使えないホテルも増え、テレホンカードを売っていない大手コンビニもある。ケータイを使えない人や、私のように拒否している人には不便以外の何物でもなく、いつの間にか事実上のケータイの携帯義務を負わされている。

 1970年代に導入された自動改札機は、人間工学に基づいて券売機から駅員のいる改札に行きにくい配置になっていました。左利きの人や目が見えない人の不便は無視。携帯義務も同じで、私にはこういうやり方が許せない。操られるだけの人生なんて真っ平だと思うのです。

 安倍晋三首相は5月、成長戦略演説の中で「官が集めたデータを民に開放する」と言った。ケータイは、ビッグデータを使った監視社会や監視ビジネスの基盤にもなっていくのです。

AERA 2013年7月22日号