同世代を中心に多くのファンを持つ山下達郎。そんな彼には自ら「空白の3年間」と呼ぶ時期がある。ベスト盤「TREASURES」(95年)が初のミリオンセラーになりながら、その後思うような活動ができなかった。

「結局90年代中盤にはカネや人間関係や会社といった問題が複雑に絡んで、僕を取り巻く音楽的なシステムが機能不全を起こし出したんだ」(クイック・ジャパンVol.62)

 97年、旧知の人間からKinKi Kids「硝子の少年」の作曲を依頼され、復帰を遂げた。そんな山下の音楽で、自分を奮い立たせる人もいる。

 続(つづき)多香子さん(55)はもう35年、山下の音楽を聴いてきた。

 3年前、北海道・札幌に泌尿器科のクリニックを開業した。20年以上勤務医として働いた40代半ば、頸椎ヘルニアで入院をした。外科医としての将来に絶望した。何とかリハビリで回復すると、開業意思が芽生えた。

「仕事の量を自分で管理したかったんです。勤務医の女医はポストにつけないから、裁量が小さいままなんです」

 女性でも受診しやすいクリニックを、と一念発起したが、困難を極める。「泌尿器科は男性の分野。前例がない」と、同じ医師の兄が猛反対。内装費やエコーやレントゲンなどのリース代を含めた設備費用がかさみ、被害は最小限に食い止めたが、協力者にも裏切られ開業費用は膨らんだ。

 開業翌年、札幌で行われた山下のライブに出かけた。終盤、スローバラードが響いた。ささくれだった心をあの声がなでる。

「この世でたったひとつの 命を削りながら 歩き続けるあなたは 自由という名の風(中略)運命に負けないで たった一度だけの人生を 何度でも起き上がって 立ち向かえる 力を送ろう」(希望という名の光/10年)

 涙があふれて止まらなかった。続さんは、ライブでの言葉が忘れられない。

「多くの人に受けるより、まずはここにいる皆さんと楽しみたい」

 自分も、世間の評価よりもまず目の前の患者と向き合おうと思えた。

AERA 2012年10月1日号