「日本最後の秘境」といわれる黒部源流。標高3千メートル級の急峻な北アルプスの山々に囲まれ、そこでは可憐なコマクサや用心深いイワナなど希少な動植物が今なお、凛として営みを続けている。

 この最奥の地を半世紀以上見つめ続けてきた三俣(みつまた)山荘の伊藤正一さん(89)が一昨年と昨年の夏、「雲上の楽園」といわれる雲ノ平(くものたいら)を歩いていると、聞き覚えのある不思議な声を耳にした。

「誰もいないはずのハイマツの中から『オーイ、オーイ』と男の子のようなかん高い呼び声が聞こえてきた。昭和の終わり頃まで、夏の夕暮れに黒部源流でよくこの声を聞いた。沢を渡るカワウソの鳴き声だろう」

 環境省はこのほど、30年以上生息が確認できていないニホンカワウソを「絶滅種」に指定した。だがいまも、その生存を固く信じている人たちがいる。

 野口五郎小屋の上條盛親さん(67)もその一人。はじめて見たのは今から約30年前、野口五郎岳と赤牛岳の間を流れる東沢で夏の午後、友人とイワナ釣りをしていた時のことだ。

 こげ茶色で丸い頭の動物が、森の中から出てきたと思ったら、数メートル先をさっと横切って、淵の中に飛び込んだという。周辺にはテンもいたが、体が一回りも二回りも大きかった。

「今でも、普段はイワナが豊富な東沢の淵に、ぜんぜんいないことがある。カワウソが全部捕ってしまった証拠。カワウソは今もいる」

 カワウソの専門家、町田吉彦・高知大学名誉教授は、

「カワウソの糞には強烈な魚臭がある。なわばりのあちこちに糞のマーキングをする。カワウソの生活力は旺盛で、寒さや雪にも強い。いまでも黒部源流に住んでいてもおかしくない」

 と説明する。黒部源流の山域全体が魚臭かったのは、カワウソの仕業だったのかもしれない。

AERA 2012年9月24日号