
プロ野球選手になりたかったという熊谷さんは、チームをまとめる達人で、従業員からの信頼も厚い
芦ノ湖が目前に広がり、多くの観光客でにぎわうセブン-イレブン元箱根店は、箱根エリアで初出店となった店舗だ。オーナーの熊谷文男さんは「絶対成功させないといけないと大きなプレッシャーを感じましたが、それ以上に希望がありました」とにこやかに話す。
今ではすっかりオーナーとしての自信がうかがえるが、まさか自分がオーナーになるとは夢にも思っていなかった。
「学校を卒業して自動車をつくる会社に就職しました。日本を代表するスポーツカーの製造に関わっていたことから、仕事に誇りを持っていました」と熊谷さんは振り返る。
ある日、後に妻となる貴子さんの父から熊谷さんに声がかかる。
「自分が経営するセブン-イレブンで働いてみないか」。当時、貴子さんの父は小田原市でセブン-イレブン小台店を経営していたのだ。
「最初は断りましたよ。セブン-イレブンの仕事とは何か分からないし、何より車をつくる仕事と当時の職場が好きでしたからね」
熊谷さんは当時を思いながら続けた。
「24歳のときに結婚し、義父からはお店のこと、将来への希望などをよく聞かされるようになりました。経営は難しそうでしたが、その店には義父の夢がたくさん詰まっていることが次第にわかってきました」
熊谷さんの勤める会社にも変化が起こった。自動車の売上が落ち込み、業界の地図が塗り替えられていったのだ。
「私が勤めている会社のシェアが下がり、この仕事を続けていいのかと考えるようになりました。商売やセブン-イレブンにも興味を持ち始めていましたし、新たなことにチャレンジしようと考えました」
熊谷さんは一大決心をしてセブン-イレブンで働くことにする。勤めていた自動車会社では部下を教育したり製造過程の指導をしたりする立場であったため、業務が一段落するタイミングを選んで退職することにした。
この会社は自身の父親の縁で入社したこともあり、父親からは会社を辞めることを反対されると思っていたが、その答えは想像とは全く違った。
「お前にはお前の人生があるもんな。その道を進めばいい。後悔だけはするな」

従業員は上下関係なくみんな仲間。左から小川裕一さん、竹生圭吾さん、長谷川成幸さん、田代美枝さん、菊池直樹さん
熊谷さんのギアが切り替わった。もともと何事にも全力で向かう性格だったが、その勢いがより加速した。
「小台店ではアルバイトとして働き始めました。まずセブン-イレブンの基本をしっかり学び経験するべきだと考えたからです」
初めてレジに立った日のこと。外側から見ていたのとは違う風景に、一気に緊張感が高まり、足が震えた。だが、胸の鼓動は責任感の高まりだと捉えた。生活が一変したことで不安を感じるときもあったが、いつも先のことを考えた。
「他のセブン-イレブンやコンビニをよく見に行きました。『ああ、そういうやり方があるのか』とか、『いい方法だからうちでもやってみよう』と他店のいいところをどんどん取り入れていきました」
その後社員になり、そして店長を任されることになった。店長になって加盟店向けの懇親会に行った際、日々の取り組みなどで模範となる他のお店のオーナーたちが表彰されていた。その光景を見て、表彰台に憧れのまなざしを向けていた文男さんに、当時のOFC(オペレーション・フィールド・カウンセラー)は「今のままでは表彰台に立つのは難しい」と言った。熊谷さんはその言葉に奮起。義父であるオーナーを絶対にこの表彰台に立たせてあげようと心に決め、接客やお店の清掃、品揃えなど、基本をとにかく徹底し、目標を達成することができた。
そして1998年に熊谷さんはオーナーを引き継ぎ、小台店は以前より売上を大きく伸ばした。軌道に乗り始め、やがて大きな転機が訪れた。箱根エリアへの出店の打診である。
「当時のディストリクトマネジャーから電話があり、箱根のこの場所を一緒に見に来ました。ここに移店しませんかと言われたんですよ」と、当時の驚きのまま話した。
続けて、ここは観光地ゆえに、売上は期待できそうだが、一方で働く人を確保するのに苦労するかもしれないとも言われた。一度は軌道に乗った小台店だったが、当時目の前に競合するスーパーができ、熊谷さんは先行きに不安を覚えていた時期でもあったのだ。
「これはチャンスだと思いましたね。人の問題に関しては当時アルバイトとして働いていたメンバーに声をかけたら、箱根に行くというので、オーナーを引き受けることに決めました」
小台店を閉め、後にするとき、熊谷さんは誓った。
「このお店のことは絶対忘れない、必ず戻ってくる」
心機一転、2002年、元箱根店がオープン。一気にお客様が押し寄せるのかと思いきや、そうではなく、初日の売上は予測を大きく下回った。
「その日はがっかりしましたよ。でも、そんなこと言っても始まらないので、前を向くことにしました」

「夏もおでんを食べたい人は必ずいます」と
おでんの仕込みをするマネージャーの香川さん。
元箱根店では1年中おでんが売れており、まさに看板商品だ

熊谷さんのお店での方針は常に原点に戻ること。お客様が欲しい商品を欲しいときにそろえること、商品を常に新鮮な状態に保つこと、店舗や設備などをいつも清潔な状態に保つこと、そしてお客様に気持ちを込めて接客することである。小台店の頃から苦しいときには常に原点に帰り、自分を見つめ直していたからだ。
これを心に留めてお店に立ち続けていくと自ずと客足が増え、売上が順調に推移していった。ただ、いつも順調というわけではない。箱根山の火山活動の活発化により噴火警戒レベルが引き上げられ客足が減ったことや、コロナ禍での外出自粛の際には、かなりのダメージを受けた。だが、熊谷さんはブレなかった。いつお客様が来てもいいように、地域の人が日常的に必要とする商品や、観光で訪れる人のために箱根のお土産品も品揃えをして万全の準備をした。

2023年1月の箱根駅伝終了後に記念撮影。忙しい一日が終わり、「頑張ったね」と従業員の労をねぎらった
そんな熊谷さんを支えているのは、共に働く仲間である。
「とくに社会的な情勢できびしい状況のとき、お客様がいつ戻ってきてもいいように、しっかり準備をしておこうとみんなで話し合っていました。みんなが前向きな姿勢でいてくれたことが、自分を奮い立たせてくれたのは間違いないですね」
そう熊谷さんは声を大きくした。熊谷さんのモチベーションをあげるもう一つのことがある。それは箱根駅伝だ。
「箱根に移店する前は箱根駅伝を生で見たことはなく、正直それほど興味がなかったんです。でも、目の前で走るランナー、応援する人々を見て衝撃を受けました。こんなにすごいイベントとは想像していませんでした」と興奮気味に話す。
当日、熊谷さんは一瞬で箱根駅伝の魅力に取りつかれた。10人のランナーが、沿道の応援を受けながら一つのたすきをつないでいく。セブン-イレブンの道を走り続ける自分の姿と重ね合わせた。ならば、自分も傍観者であってはならない、参加して気持ちだけでも共に走ろうと心に決めた。
箱根駅伝に関わる人や応援に来るお客様に対して商品が途切れることがないよう準備をして迎え、さらにお店の前の駐車スペースを大学の応援団に開放したり、関係者のための駐車場に貸し出したりした。「私たちもある意味、箱根駅伝に参加しているともいえますね」と熊谷さんは微笑んだ。選手たちとは大会以降も交流があり、元箱根店をよく訪れるそうだ。
「箱根駅伝で走った選手も、私たちを仲間のように思っていただいているのかもしれません。お店の中だけでなく、まわりにもいい仲間に恵まれているなとつくづく感じます」
ここ数年、元箱根店は外国人旅行者のお客様が格段に増え、お客様のほとんどが外国人という時間もあるそうだ。ただ、外国人であろうが、日本人であろうがお店の対応は何も変わることはない。
「どんなお客様にも楽しんでお買い物をしていただけるようにすることです」
熊谷さんは外国人のお客様と接するときいつも思うことがある。

「外国人のお客様は、さまざまな商品を買われますが、とくにたまごサンドが大人気です」と従業員の阿部智美さん
「元箱根店に外国の方が安心して入ってきてくれるのは、世界各国でセブン-イレブンが認知され、安心して買い物ができるという信頼があるからだと思います。だからうちのお店に来たお客様にも気に入ってもらえれば、自分の国や地元に帰ったとき、セブン-イレブンを探して訪れてくれるかもしれません。ここは世界とつながっているのだと常に意識し、感謝の気持ちを忘れずに働いています」
最初はアルバイトから始めたセブン-イレブンのオーナーになって25年、一店一店経営するお店を増やしてきた。そして2023年8月、熊谷さんのセブン-イレブン原点である小台店の跡地に自身のお店をオープン。義父からつないだたすきをかけ、スタート地点に戻って来た。
「でも、これはゴールではありませんよ。次につなげるため、まだまだ走り続けます」。熊谷さんは胸を張って応えた。