『キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々』/
『名称未設定ファイル』(朝日文庫)
朝日新聞出版より発売中

 日々、インターネットばかりしている。

 2009年にTwitterアカウントを開設して以来、なんでもツイートに変えて生きてきた。その日にちょっとした思いつきや冗談、見聞きしたものなどを気軽に放り込む場として、Twitterほどふさわしい媒体はない。

 Twitterに馴染んでくると「いいね」や「リツイート」が連鎖して数字が膨れ上がる面白さに夢中になった。身の回りの人物のエピソードを書いていたら予想外に「バズって」しまい、漫画化したり取材を受けたりしたこともある。「アルファツイッタラー」と呼ばれた。フォロワー数がわかりやすく統一的な人気の指標として注目され始めた時期だった。

 私はいまWeb広告会社でライターとして働いているが、これもネット上の活動を見込まれて誘われた結果である。現在の生活すべての基盤にTwitterがあるといっても、私の場合は全く大げさではない。

 Twitterはあらゆる情報が行き交うターミナルでもある。大量の人間をフォローしたタイムラインは濁流のような勢いだ。中身は文字通り濁っている。リツイートという拡散構造は、より刺激的で短絡的な情報を広範囲に届けやすい。どうすれば多くの人を巻き込むバズを生み出すのかという知見が大量に蓄積され、精度はますます高くなっている。今日に至って人間は、人間自身によって「攻略」されてしまったのかもしれない。

『名称未設定ファイル』は、自分自身がインターネットに頭の先まで浸かりながら書いた短編小説集だ。Twitterだけでなくネット通販や匿名掲示板、AI技術などのテーマを扱っていて、内容に統一性があるとは言いがたい。しかし読み返してみると「ネットワークシステムと人間」の関係を描くという点は共通している。

 インターネットは人間同士のつながりかたを根本的に変えた。そして、つながりの場という基盤を作っているシステムは、人間のありかた自体も変えてしまう。あることを思い、言葉にして書くとき、発表する場に「リツイートボタン」があるか否か。それだけで人が「書く」内容は変わる。それどころか「思う」内容そのものですら変質しうる。

 ダンゴムシは、道を進んで行き止まりに当たったとき左右を交互に曲がり続ける習性がある。これを利用して、ダンゴムシを特定のゴールへ導く迷路を作ることもできる。では、人間は自由に道を選ぶことができると言えるだろうか。たしかに、ダンゴムシと違って人間には複雑な意思決定のプロセスがある。しかし、状況次第では人間もかなり単純な意思決定をしてしまう。Twitterをはじめとするソーシャル・モデルは、ひらかれた環境と拡散システムによって、人間の意思決定を特定の方向へと誘導するようになっている。おもしろいものも、ゆるせないものも、かわいいものも、人ではなくプラットフォームが決めている。2017年に出版した短編集では、精巧なシステムの前でダンゴムシのように右往左往する人間の姿を描いた。

 それから数年経って『キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々』を出版した。日記ブログから抜粋し、加筆・修正を施したエッセイ集だ。

 2018年の半ば、日記を有料で公開し始めた。毎日寝る前に1500文字ほどの文章を書いて、限定メンバーに読んでもらっている。購読料は月額300円で、居酒屋のウーロン茶一杯くらいの価値を目指している。

 これまでは、あったことや思ったことの全てをTwitterに垂れ流してきた。しかし最近ではツイートする頻度も減り、もっぱら限定公開の日記を優先している。

 日記を書くとき、文字を打ち込むキーが重くなるのを感じる。ツイートするときはタイムラインに流れてくる情報を見るだけで勝手に言葉が溢れてくるが、ブログエディタを相手にしているとき目の前にあるのは真っ白な平面だ。なんとかして文章をひねり出そうと押すキーは重い。だが、逆にツイートが反射運動なのかもしれないとも思う。

 言葉はなんらかの形で場所に最適化されたものにならざるを得ない。開かれた場所でみんなに発信される言葉には、最初から「みんな」が前提されている。炎上を回避するにしても、セールス目的で炎上を意図するにしても同じことだ。

 無数のつながりをもたらしてくれたTwitterのことを私は心底愛しているが、全てがつながってひとつになってしまったら、もはや「つながっている」とはいえない。

 日記を書きながら、私は「閉じる」ことの効用と可能性について考えている。目指しているのは遮断ではない。システムが作り出す「流れ」を一時的にせき止めるドアがひとつあれば充分なのかもしれない。