『「断絶」のアメリカ、その境界線に住む ――ペンシルベニア州ヨークからの報告』
朝日新聞出版より発売中

 等身大のアメリカを知りたい――。長く米国に住んできたが、「自分には米国の一断面しか見えていないのではないか」という思いは、むしろ年を経るにつれ強まっていた。二〇二〇年夏、ペンシルベニア州ヨークに向かったのは、そんな考えがあったからだ。

 年々深刻化する米国社会の分断は、日本でもすでに広く知られている。また、二〇二〇年五月に起きた、白人警察官によるジョージ・フロイドさん暴行死事件を契機に、マイノリティー、特に黒人差別をめぐる問題は改めてクローズアップされた。

 ただ、知識としてアメリカ社会の分断や差別について知っていても、市井の人々の暮らしの中でそうした分断や差別はどのような形となって表れているのか、そして何より、なぜ起きるのかは、日本から見ていても実態がわかりにくい。本書は、アメリカ社会の分断や差別の最前線に住むことで、その実情を読者に伝えようとしたものだ。

 筆者が住んだペンシルベニア州は、大統領選挙や中間選挙において、民主党と共和党の支持が拮抗する激戦州の一つだ。そのペンシルベニア州南部に位置するヨークは、ある意味で現在のアメリカ社会の縮図のような場所だ。白人とマイノリティー、民主党と共和党、富める者と貧しい者、都市と地方、保守とリベラル、草の根の人々とエリート……。アメリカ社会に広がるこうした亀裂が、ヨークとその周辺地域には幾重にも交錯している。

 筆者が部屋を借りた家は、そのヨークの中でも、人々を分かつ見えない境界線上に位置していた。

 アメリカの都市の中には、マイノリティーを中心とした低所得層が集中して住む、インナーシティーと呼ばれる地域がある。ヨークにも古い住宅が密集するインナーシティーが広がっており、筆者の住んだ家もこの一角にあった。

 ところが道路を一本隔てた先からは、まるで別世界のような景色が広がる。緑が豊かな郊外型の地域には、広い庭がある一戸建てが並ぶ。筆者の住む地域はアフリカ系とヒスパニックの低所得層が中心のコミュニティーだが、「向こう側」は比較的豊かな白人が中心だ。

 そして両者は、互いの地域には足を踏み入れず、買い物も勤務先も子供の学校も違う、二つの異なる世界で暮らしている。

 日本の「親ガチャ」にも通じる言葉として、米国には「郵便番号で人生が決まる」という言い回しがある。米国ではこの数十年、人種や経済的な豊かさによって住む地域が分かれるセグリゲーション(分離・隔離)が進み、単なる経済格差のみならず、受けられる教育など、よりよい生活を手にするための「機会」の格差も拡大している。その結果、どの地域で生まれたかで、その後の人生の大部分が決まってしまうというのが「郵便番号で決まる人生」の意味だ。

 ヨーク市内のインナーシティーは、こうした機会格差の底辺に位置している。筆者がその内側に住んで目の当たりにしたのは、貧困や銃犯罪が蔓延する過酷な現実と同時に、インナーシティーの外側に住む人々が足を踏み入れず、同じ米国人ですら実情を知らない「断絶」の深刻さだった。

 また本書では、ヨークの郊外や近郊の町を舞台に、移民が過半数になった町に住む人々や、進歩的な価値観と伝統的な価値観との衝突ともいえる「文化戦争」の当事者たち、反エリートを訴える草の根保守運動に加わる人々の声にも耳を傾けている。通底するのは、社会の中心だったはずの自分たちの存在が顧みられず、周縁部に追いやられているという思いだ。

 こうした思いは、無意識であれ意識的であれ、白人というアイデンティティーと密接に結びついている。筆者が取材した白人男性の一人は「私のような中年の白人男性は、いまや攻撃対象になっている」と「逆差別」を訴えた。

 一方で、別の白人女性は、「『我々こそがこの国を創設した、最も重要な存在だ』という思いが、特に白人男性の間で表面化しています」と述べ、一部の白人の間には「白人特権」を失うことへの不安があると指摘した。

 人々が交わらず、境界の「向こう側」の世界があまりに遠くなるなかで、「自分たちが社会から排除されている」という声は、地方の白人住民からも、インナーシティーのマイノリティー住民からも聞かれた。しかし今の米国社会は、相手の置かれた状況を知ろうとしたり、その言葉に耳を傾けたりという動きとは逆の方向に進み、相手への無理解や対立がさらなる分断を招くという悪循環に陥っている。

 米国社会の現状や課題は、程度の差こそあれ、日本社会にも通じるものがある。本書が、米国で何が起きているかを知るヒントになると同時に、私たちの足元についても考えるきっかけになれば幸いだ。