『愛という名の切り札』
朝日新聞出版より8月5日発売予定

 結婚ってなんだろう? 最初の結婚に失敗してウツを病んでから、私はそれをずっと考えていた。幸せな結婚は幻想だと言われて久しいが、それでも人は何かを夢見て結婚する。それはなぜなのだろう。この年になってあらためて周りを見回すと、仲むつまじい夫婦にはなかなかお目にかかれない。それでも連れ添っているのはなぜか。ほんとうに生活のためだけなのか。結婚には何か魔力のようなものがあるのではないか。その問いに答えを得たとき、それを小説に書きたいと思っていた。ゴールインするまでの恋愛小説ではなく、それから先の夫婦の物語。けれど、考えれば考えるほど結婚と愛の関係はわからなくなるばかり。

 けれどあるとき、人は答えを出すために結婚するわけではないのだ、と気づいた。離婚も同じだ。私はいろんな疑問を抱え、答えが出ないまま離婚して、心を病んでしまったのではないか、とも。それがこの小説を書くきっかけとなった。デビューして初めて、これが答えだ、というものがない小説に挑戦したことになる。

 それから私は取材を始め、女たちに話を聞いていった。結婚しないかもと言いつつ、具体的な相手の条件をうれしそうに並べる二十代がいた。夫とは同志だという子育て中の三十代はサバサバしている。失われかけているつながりを取り戻そうと苦しむ四十代の話は身につまされ、いまではもう何の接点もないと夫に対してさめた感情しか持っていない五十代はいっそすがすがしい。これからはそれぞれ勝手に生きるという六十代の気持ちはよくわかる。

 子どもはかわいいけれど、夫は面倒くさいだけという人も多かった。共同生活への配慮が足りないという一点に集約されそうな、ささいなそれでいて我慢のならない夫たちの行動は、女たちからやさしさを奪っていた。不満を勢いよく語る彼女たちは、それでも「別れたい」ではなく「稼いでもらわなきゃ」と言う。そこに愛はあるのかと問うと、答えはあいまいになる。聞けば聞くほど、結婚という制度の中で一人の人を愛し続けることの難しさを痛感させられた。

 今回書き下ろした長編小説『愛という名の切り札』では、主人公の一人、作曲家・影山一輝の妻・梓が、突然心変わりを理由に夫から離婚を突きつけられるが、彼女にはまだ夫への思いが残っており、どうしても妻でいることをあきらめきれない。夫を待ちながら、自分の愛が切り札になるかを考え続ける。もう一人の主人公である飯田百合子は、あたりまえのように結婚、出産、育児をしてきたごく普通の主婦だが、結婚しようとしない娘・香奈に結婚のメリットを聞かれて考えこんでしまう。その上、娘同然にかわいがってきた姪・夏芽が不倫に走り、男の身勝手さを目の当たりにすると同時に、恋する者の強さにとまどう。百合子もまた結婚のメリットを考えていく中で、自分自身がそこに組み込まれている結婚制度の落とし穴に気づいていく。

 その気づきは、ドラマチックでもなければ意外なものでもないので、書いていてとても歯がゆかった。しかし、誠実なその歯がゆさの中にこそ、長年連れ添った夫婦の一枚岩ではない複雑な関係性があり、一夫一婦制の矛盾が隠されているのではないか。

 梓は才能豊かな若き作曲家・理比人と出会い、彼と話すことで音楽と愛について多くを悟っていく。ベートーヴェンの第九をはじめ、音楽も今作の重要なファクターである。書いているあいだ、ショスタコービッチと吉松隆には多くの刺激を受けた。「人間がただ生きることとは別の欲求につき動かされて音楽を作り出したように、愛というものもまた、極めるべき一つの道として開かれてきたものなのだ」。梓の気づきの中でも、この部分に私は深く同意する。

 百合子の気づきの中では、次の部分がおそろしい。

「結婚というもので自分の居場所は守られていたんだわ、と百合子はふいに気づく。私や秀人のように愛に無頓着な人間は、結婚という制度のおかげであたかも愛し合ってるかのごとくふるまわせてもらっているのだ」

 けれどそれらは、結婚とは何か、愛とは何か、ということの最終的な答えではない。今回は、答えが出ないままそれを抱えて生きることのリアルが書きたかったのだ。この物語を書き終えて、さらにまた別の物語で「その後の結婚小説」を描いてみたいという気持ちが大きくなった。

 そしていつのまにか、今作の登場人物たちは私の手を離れ、自分の頭を使い、考え、生きている気がする。梓のように愛に振り回される女、百合子のように日常をたくましく生き抜く女、若いが鋭い理比人、そして現実的すぎる香奈が、この世界のどこかにいることをビビッドに感じてもらえたら、作者としては幸せである。