『江戸500藩全解剖 関ヶ原の戦いから徳川幕府、そして廃藩置県まで』
朝日新書より発売中

 このたび、『江戸500藩全解剖』という新書を発刊した。大仰な書名だが、これ一冊で藩の仕組み、諸藩(大名家)の栄枯盛衰、意外な逸話を楽しんで理解できるようにしたためたつもりだ。

 そこで、この本の内容のごく一部を紹介しよう。

 江戸時代は、約260年間を通じて大名家が常に260~280藩ほど存在していた。潰れた藩を合わせると、およそ500藩にのぼるという。

 ただ、意外なことだが、藩という名称は、江戸時代には公式に使用されていなかった。明治初期に新政府が用いたのが最初で、その後、「大名の領地とその支配機構」を学術用語として「藩」と呼ぶようになったのである。

 よく徳川宗家との関係から「親藩・譜代・外様」と藩(大名家)を3区分するが、ほかにも江戸幕府は、家柄や朝廷の位階、江戸城の詰所などで、藩の上下関係をきっちり分けて統治した。また、武家諸法度や一国一城令などの法令で藩(大名家)が反抗できぬようがんじがらめにし、徳川への忠誠の証として参勤交代という世にも奇妙な義務を課した。

 また、江戸初期は、無断での石垣の修築など疑わしい行動があれば、福島正則のように改易の憂き目にあった。

 とはいえ、幕府に害をもたらさなければ自由で良いという放任主義をとり、各藩の政治や経済、教育などには原則口を挟まなかった。そういった意味では、江戸時代には藩という多数の国家が分立していたといえるのだ。このため江戸中期になると、それぞれの藩の士風や風土が確立していった。

 とくに士風に大きな影響を与えたのが、藩の教育である。 幕府は朱子学を重視し、江戸中期になると、昌平坂学問所という官学をつくり、幕臣の入学を義務づけた。多くの藩もこれにならって朱子学を主とする藩校(藩学)を設立していったが、中には庄内藩の致道館のように荻生徂徠の徂徠学を骨子とした藩もあった。

 たとえば、致道館の初代校長の白井矢太夫は師範に対し、「個人によって教育の方法は違うのだから、なんとなく藩校にやって来た学生たちが、自分でも気づかないうちに学業が進んでいる、そうした状況をつくるよう教師は心がけよ」と命じている。さらに「学校は子供たちの遊び場なのだから、子供が無礼を働いたりイタズラしても、たいがいのことは大目に見てやれ。教師は子供たちがあくびしないで面白がるような授業を心がけよ。子供たちの面白がるような本を見せてやれ」と言っているのである。

 到底、江戸時代における校長の発言とは思えない。

 また、他の藩校と比べ、自学自習の時間が多かったことも致道館の特徴だが、これも徂徠学の影響であった。徂徠は著書『太平策』のなかで次のように語っている。

「良い先生というのは、臨機応変にその人が獲得できる能力を考えたうえで、一箇所に風穴を開けてやるもの。そうすれば、あとは本人が自分の力で能力を獲得していくだろう」「生徒が自ら学ぼうという気持ちがないのに、先生が教えようというのは、教育ではなく販売である。そんなことをしても、生徒のためにはならない」

 何だか、今はやりのアクティブラーニングのようだ。

 致道館の学則もかなり自由で、藩校での碁や将棋、飲酒、喫煙、楽器演奏などは禁じられたものの、それはあくまで建前で、校長などの許可を得れば、酒を飲んでも、煙草を吸ってもかまわないとされた。このように、幕府が各藩に教育がゆだねられたことで、庄内藩のようなユニークな教育を展開する藩もあったのである。

 さて、基本的に藩(大名家)の経済規模は小さいから、自活して経済を回していくのは大変なことだった。しかも貨幣経済が発達し、物価は年々上がり、人びとの暮らしも贅沢になっていった。このため江戸中期になると、ほとんどすべての藩が財政赤字に転落し、藩政改革を余儀なくされた。

 基本的には、米沢藩の上杉鷹山のような勤倹を旨とし、コツコツ長年かけて財政を好転させていくという手法が多かったが、中にはとんでもない禁じ手を打つ藩やきわどい政策を実行する藩もあった。薩摩藩などは、豪商からの借金を踏み倒し、清朝との密貿易、黒砂糖の搾取、偽金造りで財政を再建している。佐賀藩などは、地主から土地を取り上げ、小作に分配するといった、まるで戦後の農地改革のような均田制を断行し、農村の再生を果たしている。

 このように500藩はそれぞれ、特徴やクセのある歴史をたどっているのである。もしこうした話に興味があれば、ぜひとも拙書をご一読いただければ幸いである。