――ひとはなぜ生きるのか。なんのために生きるのか。

 我々はそんな問いを抱えて生きています。いままで多くのひとがこうした問いに向き合い、そして答えを出せぬまま亡くなっていきました。毎日のように死に触れているぼくも、このおおきな問いに答えを出すことはなかなかできません。

 しかし、「なぜ生きるのか」といった壮大な問いから一度離れ、「ひとからどう記憶されたいのか」「周りのひと、大切なひとにどんな思い出を残したいのか」と問い直してみると、いかがでしょうか。じゅうぶんに「どう生きるのか」の生きる指針となるはずです。

 ぼくは納棺師として最後のお別れに立ち会い、たくさんの「どう生きてきたのか」に触れてきました。しかし、「どう死ぬか」を見てきたわけではありません。納棺師とは死を看取る仕事ではないからです。

 ぼくたちは、故人さまが「どう生きてきたのか」を知る仕事。そして、遺されたひとたちの「どう生きていくのか」を支える仕事なのです。

 さらにぼくは一般的な納棺師とは異なり、打ち合わせ(お見積もり)から納棺、葬儀、そして火葬まで基本的にはひとりの納棺師が寄り添う「おくりびとのお葬式」を提供しています。

 初期ケアから最後まで伴走することで生前のままのお姿でおくることができますし、さらに「オーダーメイド」ともいえる、故人さまらしい葬儀を共につくりあげることができる。徹底的に、「おくる質」を重視しているのです。

 そしておくる質を高めるためには、故人さまの人生やひととなりをよく知る必要がある。だからこそ、ぼくはたくさんの「どう生きるか」に触れることができたのでしょう。

 ぼくが拙著『だれかの記憶に生きていく』でお伝えするのは、「死に方」ではなく「生き方」です。一度きりで、しかもいつ終わってもおかしくない人生を、どう生きていくか。

 これまで経験してきたさまざまなお別れに触れながら、ぼくがなにを見て、なにを感じ、なにを考えてきたかをまとめました。ページをめくる時間が、「どう生きるか」について考える時間になればうれしいです。