『渋沢栄一と勝海舟 幕末明治がわかる! 慶喜をめぐる二人の暗闘』
朝日新書より発売中

 明治の経済人として名高い渋沢栄一。江戸城無血開城の立役者勝海舟。

 一見、二人の傑物は何の接点もないように見えるが、共通点が一つあった。徳川家の家臣つまり幕臣だったことである。海舟はともかく、栄一については幕臣のイメージはあまりないだろう。

 海舟は幕臣の家に生まれたが、栄一はもともと農民である。幕府終焉の三年前に徳川一門の一橋徳川家の家臣に取り立てられたばかりだった。幕臣に転じたのはその二年後であり、幕臣時代は一年ほどに過ぎない。幕府の終焉そして戊辰戦争の時は、万里の波濤を越えたパリにいた。公務と留学のため渡仏していたのである。

 幕臣団のなかでは新参の一人に過ぎなかったが、二十代後半の血気盛んな時でもあり、将軍から朝敵に転落した主君徳川慶喜に薩摩・長州藩を主力とする新政府軍との決戦を滞在中のパリから強く迫る。その時、栄一が日本にいたなら、従兄の渋沢成一郎が頭取となった彰義隊にも加わったことは間違いない。戊辰戦争でその生涯を終えていたかもしれない。

 栄一と慶喜についても何の接点もないように見える。しかし、実は二人は厚い信頼関係で結ばれていた。栄一は慶喜よりも三歳年下で、ほぼ同年代だったが、武蔵国血洗島村(現・埼玉県深谷市)の豪農の長男に生まれた栄一が接点を持つなど、平時では到底考えられないことであった。だが、幕末という激動の時代が二人を結びつける。

 もとをたどれば、栄一が過激な尊王攘夷の志士だったことが理由である。尊王攘夷論というと長州藩の専売特許のイメージが強いが、実は幕府を支える立場の御三家水戸藩が発信源となっており、慶喜の父徳川斉昭はそのシンボルだった。よって、水戸藩にシンパシーを感じていた栄一は、斉昭がその才を愛した慶喜にも攘夷の実行を大いに期待していた。

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