事態には現実で処する(しかない)が、言葉に面白みが生じてしまうことは別個のこととして、これはもう仕方ない。そして現実世界の、かつてならあり得なかった(よくない)事態には、詩でそのおかしさを炙り出して、おちょくったり、際立たせたりするのが(批判とは別に)有効なんじゃないか。

  くだら野や先生が先生をいじめる

 早速、一つは俳句にしてみた(字余りだが)。

「市長抗議の座り込み」も音数が七五なので、五音の季語を添えようと考えたが、こっちはどうしても面白くなりすぎちゃう。電気グルーヴの曲『人間大統領』で大好きなフレーズに「ベネチアグラスの火炎瓶」というのがある。そう「言う」だけで前後の文脈なんかない歌詞だが忘れがたい。それに(脳内で)しばらく並べておくことにする。

 ところで「主催が脱退」はどうだろう。僕は六年近く、俳句の同人団体を率いていた(俳句の結社を率いている人は「主宰」と呼ばれるが、僕はその同人では「催しごと」をしている程度の意識だったので、公式サイトなどでも主宰でなく「主催」と書いていた)。

 自分が作った同人だったが、年月とともに組織が硬直化して、やりにくくなっていた。これがバンドなら取るべき態度は「活動休止」とか「解散」だろう。でも、それも大げさなアクションになるしな(世間が知るほどの活動履歴もないし)。また、熱心に俳句を続けたい同人もいて、僕の一存で解散してはかわいそうだ。

 自分が脱退すると閃いたとき「その手があったか!」という、先の、誤った、言語的な爽快さがたしかに、わが胸に生じたのだった。

 その、顛末も記された本が刊行される。私的な俳句同人のことなど、皆さん特に興味なかろうが、ここまで開陳してきたような言語的思考に満ちた一冊でもある。「態度は言語でもある」という言葉で興味を持ってくださった方にはぜひオススメしたい。あ、俳句に興味がある方にも、もちろん。