ああすればこう言う、こうすればああ言う。とにかく世間はほうっておいてくれない。しかし、介護など投げ出してしまいたいと思ったとき、それをとどまらせたのは、消えそうな自分の良心と、そしてどうしても無視できない世間体だった。長男の嫁として恥ずかしいことはするなと世間は目を光らせていた。その視線がこわくて私はふみとどまった。そして、なんとか義父を看取ったとき、あの疎ましい世間だけが、私をほめてくれたのだった。ほうっておかないということは、つまり見捨てないということなのだ、とようやく私は理解する。その世間の微妙なあたたかさが、うまく伝わったかどうか。

 介護はつらい。けれど、それを通してしか見えてこないこともある。たとえば老いの現実だ。かつてできたことができなくなっていく、それが老いるということで、たしかにそれは情けないことなのだけれど、人は、情けなさを乗り越え、残った力でたくみに生き続けるしかない。そのもどかしさ、くやしさ、戻らない時間へのせつない思いは、義父や周りの老人たちを通して日々心にしみた。子どものころ、なぜおじいちゃんやおばあちゃんがあれほどやさしく感じたのか、そのわけがいまではわかる。老人たちは、これから坂を上っていく若い者たちにかつての自分を重ね、その可能性をいとおしく抱きしめてくれていたのだ。そうすることで、できなくなった自分を認め励ましていた。それが彼らのやさしさだった。老人たちのそのやさしさは、この超高齢化社会の底に静かに横たわっているのでは。

 まわりを巻き込み振り回し、寝たきりになってからも危篤を何度か繰り返して、義父は自分の寿命を全うした。全力で生き続けようとするその姿は、命の激しさとしぶとさを私に教えてくれた。そして死が、ただその人だけにひっそりと訪れるものなのだと知ったことは、私を変えた。

 家族が要介護と認定されたとたん、事態は待ったなしでどんどん進んでいく。ホームは満杯、病院は引き受けてくれない。金銭的にも限界がある。そうなったとき即戦力として頼りにされるのは、嫌といえない妻であり娘であり嫁である。どんなに尽くしても感謝の言葉をもらえない、それゆえにむなしさのつのる仕事、それが介護だ。この小説に登場する女たちの本音が、彼女たちの苦悩と孤独を一時でもいやすことができれば、うれしい限りである。