長い時の洗礼を受けた古典を開けば、いまも私たちが現在進行形で抱え、試行錯誤している問題の核心を、果てしなく遠い距離からズバリと正確に突き刺してくれる、珠玉の「名言」たちが永久保存されています。それをゆっくり湯戻ししてみると、心身を豊かにしてくれる栄養、時には取扱注意の猛毒も含めて、どれだけたくさんの真実や教訓が圧縮されているのか、改めて驚かされます。

 そしてもうひとつ、こういうことも思うんです。では、私たち凡人は、「名言」を生み出すことはできないのかなって。あるいは我々にとって、いかなる時に「名言」は本当に生命を持つのかなって。

 私は精神科医という仕事柄もあり、普段からたくさんの人とお話しする機会が多いんですが、僭越ながら私にも、だいたい年に1回か2回なんですけど、驚くようなことを言われることがあるんです。「実は私、あのときの先生の言葉で、ずいぶん人生を支えられたんです」って。

 でも実は、残念ながらと申しましょうか、その言葉を私自身は覚えていないことが圧倒的に多い。95%まではたぶん何気なく、自然な話の流れで出た言葉なんです。我ながら拍子抜けしてしまいますが、せいぜい「ああ、そんなようなこと言ったかな」とぼんやりとしたもので、確信的にその言葉を発したことはほとんどない。
 ただ、その言葉を相手に投げ掛けたときの感情だけはけっこう覚えています。それはなぜかというと、ほぼ決まって相手がつらい時期に、なんとか元気づけたいな、と思ってちょっと焦って何か喋っていたからでしょう。その切羽詰まった感情だけは、けっこう生々しく覚えているんです。でも何を言ったかは、ほとんど覚えていない。そんな頼りない私の放った言葉を、相手は「人生を支えるもの」として反芻し、大事にしてくれているみたいなのです。

 もしかしたら、ひとりの人間の心の中に残っている言葉というのは、そういうものかもしれない。たとえ不恰好な拙い言葉でも、客観的にはありふれた凡庸な言葉でも、それを与えられた人の感情の高鳴りがリアルに乗っかったとき、その人の中で「名言」になるのかもしれない。

 読書という体験も、本質的には書き手と読み手の一対一の関係性で行われるものだと思います。だからこの本に収められた13の「名言」も、神棚に置かれたままの状態であれば、おそらく意味がないんです。読者の方々がじかに触れて、自分の人生の中で広げていっていただくようなことがあれば、言葉に新たな生命が吹き込まれて、その人にとって有益なものになる。この本の読書体験が、その生命を吹き込むための一助になったら、あるいは自分の心の中にある大切な言葉たちを掘り起こしていくことに連結してくれたら、こんなに嬉しいことはありません。