毎日の通勤先を持たないので、起きる時間も身づくろいも、一日どう過ごすかも、気の赴くままだ。

 町が通勤通学の喧騒から一息つく昼下がりに、出かける。犬連れで行く。街路樹や外灯、運河にかかる橋のたもとで、犬が立ち止まる。不意に足を止めたところで思いがけない瞬間を目にしたり、しばらくぶりに知人と会ったりする。急ぎ足で歩いたり車に乗ったりしては、見えない町と会う。

 大学を出てから、とにかく先へ、一歩でも前へと過ごしてきた。ニュースとなるネタを拾い、形に整え、売る。そういう仕事に関わってきたからだった。

 次から次へ。思い立ったら、動く。着いたら、発つ。

 携帯電話もインターネットもない頃で、自分には属する組織もあてにできる伝手もなく、面白いかどうか確かめるには、現場に行ってみるしかなかった。数日分の着替えに現金、手帳を入れた鞄が、いつも出発オーライで待っていた。毎日の回転が速ければ速いほど、新しいイタリアを射止められるような気がしていた。

 けれども時間が経つうちに、無鉄砲を常識が抑え、逸(はや)る気が鎮まるようになった。

〈遠くではなく、ここにあるのではないか〉

 ニュースを探して回った各地で見聞きしたことがふと、沈殿した記憶の澱(おり)から浮かび上がってくる。

 夜明け前の海の色。

 かき回す鍋の中から立ち上る湯気。

 握り返す小さな手。

 漁師の掛け声。

 初めて入る書店。

 路地の

 階上からのピアノの音色。

 ダイアナ妃の事故死やアメリカの9月11日を経たある日、ニュースを追いかけるのをやめた。

 先を急ぐあまり、ないがしろにしてきた幼い子の「あのね」の続きや、座る時間を惜しんで味わい損ねた田舎の食堂自慢のミネストローネ、そのほかたくさんの情景を拾いに戻らなければ。

 思い出の間を彷徨(さまよ)う旅は、始まりも終わりも唐突だ。20歳の大学生に戻りナポリの下町を歩いていたかと思うと、突然、昨日の自分がそこにいたりする。通り過ぎたイタリアが、姿を変えて現れる。見古した光景が煌(きら)めいている。

「触ってもよろしいですか?」

 入った店で、じっと私の足元を見ていた女店主からだしぬけに訊かれた。しゃがみ込んで犬を撫ぜながら、その人の飼い犬の話になった。「もういなくなってしまったのですけれどね」。共に過ごしたさまざまな時間。忘れられない、とくぐもった声で締め括った。彼女は、犬と私を交互に見てため息をついている。犬の話は、彼女に連れられていく旅の入り口なのだった。

 店の奥には、壁一面に多数の木片が飾ってある。厚い木片の表面には凝った草花や幾何学模様が彫られ、黒みがかったり赤を帯びた色がうっすらと染み込んでいる。

 運河沿いにあるその小さな店は、かつて白地の反物に版木で色や紋様を押し染めてきた職人たちの工房跡だった。

「ミラノがファッションで一世を風靡したのは、デザイナーの創意のままに色や柄を染めて支えてきた職人たちがいたおかげなのです」

 しかし彼女が家業を継ぐことになったとき、職人たちの代わりに機械を入れた工場へと刷新するよう、親族たちから迫られた。

「始まりを消してしまったら、帰るところがなくなります」

 創業時からの版木と引き換えに、彼女は家業を継ぐ立場から身を引いた。

 壁にかかる木彫りの模様に、ミラノの遠景と今が透けて見える。

 戻って、出直す。終わりが始まり。

 イタリアからイタリアへ、と各地を旅したことを記していったつもりが、再会したのは置き忘れたままにした自分だった。