この原稿を書いている今、東京の桜は満開である。千鳥ヶ淵も上野公園も息を呑む美しさで、中国人観光客も大勢訪れていた。知り合いの中国人も、わざわざ桜の開花時期に合わせて日本旅行に来ている。中国にも、桜はたくさんある。それどころか、全世界約150種類の野生種桜のうち中国原産種は50種類以上で、桜の起源は中国だという。日本の桜は、ヒマラヤ山脈あたりの原種が唐代に伝わったものだそうだ。天適集団という中国で初の「桜ビジネス」を展開している企業を以前に取材したとき、そういう話を聞いたし、日本の専門書『桜大鑑』でも桜の原産国は中国とある。なのに、なぜわざわざ日本へ桜を見に?

 桜の花を愛でることを文化にまで昇華させたのは日本だ、と彼らは言う。中国にも桜はあるのだが「花見文化」というのはまだ根付いていない。天適集団が取り組む桜ビジネスとは、日本のような花見文化を中国に根付かせてビジネス化しようという試みだが、彼らの運営する桜庭園の多くは入場料をとって、アスレチック遊具なども設置したレジャーランドみたいになっていて、日本の花見とは随分違う。

 日本は季節になると、公園や神社や大通りに、それこそ樹齢50年以上の大きな桜がトンネルのように咲き誇り、そこを誰もが無料でそぞろ歩くことができ、あるいは花の下で酒を酌み交わす光景が普通にみられる。ほかに何もなく、ただ花を眺めて過ごす。日本に来て、そういう花見に中国人を案内すると、多少の知識人ならば、即興で漢詩を詠んだりもする。そこで改めて気づくのだ。中国の古典を振り返れば雪月花を愛でる感性はもともと中国人にあったのだ。ただ、現代中国社会では、動乱のあとは高度経済成長の拝金主義の波にのまれて、花に心奪われるゆとりを忘れてしまっていたよ、と。

 何年か前のこと、桜の季節に中国人の知人が靖国神社に行きたい、と言った。中国では靖国神社は、中国を侵略した日本鬼子(リーベングイズ)を祭る社、悪の象徴だ。だが靖国神社の桜は格別美しいらしい。一人で行くのは不安なので案内してほしい、と言う。桜の社を訪れた後の感想は「実に素晴らしい慰霊施設」だった。中国も人の死の悼み方についてはもともと深いこだわりがある。だが、共産党政権の唯物的な価値観が浸透するにつれ、戦争の犠牲者の慰霊は政治宣伝に利用されるだけのものになっている。普段はそれに慣れてしまっているが、日本の慰霊の在り方というものを目の当たりにすると、これが中国に足りないと思う、と言う。

 中国人は反日的な人が多く、価値観や感性を全く理解しあえないと思われてきた。私自身、反日デモを取材し、反日活動家をインタビューしてそういう記事も書いている。だが中国人は実は相当日本が好きらしい、日本人の感性や価値観に憧れや共感もあるらしい、というのも6年間の北京駐在時代に気づいていた。日貨排斥運動を展開していた反日活動家の取材の手土産に日本のお菓子やお茶を持っていけば喜ばれたし、ばつの悪そうな顔をしながら「カメラだけは日本製を持っている」と打ち明けられたこともあった。普段は日本アニメ好きで親日家だと思われていた青年が、北京の日本大使館前で反日デモに参加して、日本人の友人たちから、どうして?と問い詰められると、まあ、政治と趣味は別ということで、みたいな言い訳をしていた。

 この日本への好きと嫌いが背中合わせに同居する中国人の「好き」の部分に焦点を当てて書き始めたのが本書である。いったい中国人は日本のどこが好きなのか。なぜ好きなのか。春節に中国人旅行者が日本に来て家電量販店やドラッグストアで大量の買い物をしたことは、日本でも大きく報道されたが、なぜ日本製品を欲しがるのか。なぜ中国の本屋には日本の小説が常に平積みなのか。日本のアニメや漫画のどこに惹かれるのか。

 突き詰めて考えていくと、中国という国が見えてくるだけではなく、日本という国の横顔も見えてきた気がする。日本の価値観や美意識の中には、実は桜の花のように中国由来のものが少なくない。茶道も禅も、伝統と呼ばれるものの中に古代・中世の中華文化の名残を見つけることができる。明治維新以後は欧米文化をすごい勢いで吸収し、現代の日本文化を形づくってきた。

 私たちのご先祖さまたちが、いかに海外への知的好奇心と探求心にあふれていろんなものを吸収してきたか。それが実は独自の文化や伝統の源になっている。中国人論を書くつもりで筆をとったのだが、書きながら日本文化の成り立ちについて私も考えを深めることになった。中国のことを知りたい人だけでなく、日本がこれからも魅力的な文化発信国となるにはどうしていくべきか考える上でも、多少は参考になるものが書けたのではないかと思う。