11月号作家 江國 香織 Ekuni Kaori小説を言葉の外にだせるかどうか |AERA dot. (アエラドット)

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11月号
作家 江國 香織 Ekuni Kaori
小説を言葉の外にだせるかどうか

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■言葉はどこに行くのか

――江國さんの小説のタイトルは、いつも強い印象を残します。今回は生き物の名前が三つ置かれ、一見、そこには作品の世界観を示す象徴性や隠喩があるように感じさせませんが、読後には「これしかない」と思わせます。

江國:長編の場合、いつも作品の内容をある程度まで固めてからタイトルを決めるんですが、今回は「ヤモリ、カエル、シジミチョウ」とタイトルまで決めたあとに小説の内容が変わったので、結果的にタイトルが先行したことになります。いままでにないパターンでした。そもそも小さな生き物と意思の疎通ができる男の子の話を書いてみようと構想していて、もっとファンタジー色の強い物語をイメージしていたんです。たとえば、男の子がヤモリやカエルやシジミチョウと冒険の旅に出るような。でも連載に向けて考えていくなかで、もっと小説の世界を広げたいという気持ちになって、もう一つまったく別に構想していた小説を合わせてみようと。

――奇数章が小さな生き物と話をする幼稚園児の拓人のパートです。もう一つの小説が偶数章にあたるわけですね。

江國:はい。発せられた言葉と、そこに込められた気持ちは、どこに行くのかというモチーフから考えはじめたもので、こちらは大人たちの世界を描いています。たとえば相手に届いた言葉も、受け取ったほうは忘れてしまうかもしれない。書いたものにしても、捨てられてしまうかもしれないし、忘れられてしまうかもしれない。あるいは死者に向けて語りかける言葉とか、死者が生前に残した言葉とか。それらが「どこに行くんだろう」というと幾分ナイーブ過ぎる言い方になりますが、宙に浮いてしまった言葉というか、もしそれが誰にも届かず空気中にあるとしたら、息も出来ないほどの質量になるだろうというイメージがあって、そこから相手に届かない言葉はどこに行くのかというモチーフに結実していきました。

――本当に「言葉」が多層的に描かれる小説だと思います。しかも江國さん、かねてから「言葉によって描けないものはない」と話されていて、今回、いよいよ言葉を介さないコミュニケーションを言葉によって書かれた。

江國:拓人が虫たちと言葉を交わすシーンは、本当に難しかったです。言葉の届かない世界を言葉によって書こうという試みは、ちょっと無謀だったかなと。意味不明ではダメですが、かといって理に落ちないようにしたかった。でも私自身が言語を中心にものを考え、小説も言語によって成り立っている、同じように読者も言葉によって小説世界を見ている存在ですから、どうしても矛盾してしまう(笑)。言語を日常的に使っている人の側に寄らずに書くというのは、想像していた以上に体力のいることでした。

――言葉を介さない拓人と生き物たちのコミュニケーションを「翻訳」しているような感じでしょうか。

江國:「翻訳」よりもっとあぶなげのある作業を選んでしまいました。破綻しないギリギリの境界線を縫っていた感じがします。これまで小説として書こうとする対象があったときに、そこに向けて突進していく書き方をしていたと思うんですね。たとえば子供の世界とか恋愛、あるいは家族というものに対して、読者や常識、暗黙の了解みたいなものを置き去りにするくらい突き進みたいと考えていて、そこから読者に見えるものがあるだろうと書いていたところがあります。ただ今回は、書く作業としてまったく逆で、読者とか常識とか、暗黙の了解といったものを取り払うわけにいかなかった。だから突進はせず、バランスを取らなければならなかったというのが大きな枷でしたね。

――大人たちの世界には、様々な人たちが配されています。墓地の管理人は死者たちに声をかけ、拓人が通うピアノ教室の先生の母親は、夫ではない男性に向けて語りかける。それぞれに「不在」を抱えながら生きているように見えました。

江國:はい。私が意図したのは、人の孤独みたいなことでした。たとえば拓人の父・耕作には、妻も愛人も子供もいるので、状況としては孤独ではない。けれども、妻の奈緒から話をしたいと言われているにもかかわらず、久しぶりに帰った自宅のバスルームで愛人のことを想像して、彼女ならなんと言うか考える。耕作にとっては、そこにいない人の言葉のほうが信じられる、あるいは自分の中にいる他者であれば分かり合えると感じている。現存する他者とは作れない関係というか、いないからこそ構築できる関係というか、良いことか悪いことか分かりませんが、そういう部分がどんな人にもきっとあると思う。他者を信じるのは難しいけれども、自分を信じることも難しいから、どこかに存在している、自分を仮託した架空の存在がいれば盤石でいられるというか。それは安全な孤独で逃避かもしれませんが、そのようにして心のなかで言葉を発することは誰にでもあると思うんです。たとえばテレビに向かって、あるいは犬や猫に向かって言葉を発する独り言のように、声には出さないけれども、昔の恋人や死者に向かって言葉をかけるようなことはあるんじゃないかと。しかも、それが本人に自覚されているかどうか分からなかったりする。ある人が発した言葉以外の“言葉”というか、本人さえ自覚しないまま発せられた“言葉”というものについて書きたくて、それを描くのもまた矛盾をはらむんですが、でも、それは存在するに違いないし、その“言葉”を見てみたかった。

■不自由な大人たち

――言葉と世界の関係においては、言葉を介さない拓人のほうが十全で、小さな生き物たちとのコミュニケーションも濃密です。一方、言葉を使いこなす大人たちのほうが不自由に見えます。

江國:そうですね。この小説を書こうとしたときに、いちばんに描きたいと思ったのはそのことで、言葉があるために変になっていくこと、厄介になっていくこと、分かり合えないことがあるなと。

――耕作と愛人関係にある真雪は不思議な存在に思えました。言葉との関わりも、距離感も、ちょっと他の大人たちと違うような。

江國:彼女は言葉の機能として、限定してしまうことも含めて、良くも悪くもコミュニケーションに対する期待や幻想を持っていないのかもしれません。結果として箍(たが)の外れた状態かもしれませんが、たとえば「愛している」と言われたら、それは丸ごと信じるというか、もちろん互いに愛し合っている状態だから信じるんだけれども、「結婚してくれるのか」とか「奥さんと別れるのか」とか「いずれ捨てられるのか」ということは考えない。「愛している」と言った以上のことが、自動的に付いてくると感じてしまう人が多いなかで、慣習的に含まれてくるものには取り合わない。いや、付随するものを知らないというほうが正確かもしれません。彼女を帰国子女という設定にしたのも、日本語を少し外国語に近いものとして捉えられるからで、あまり言葉に手垢がついていないというか、生まれてからずっと母国語で育った人と比べると言葉を清潔に扱っている感じがする。だから愛情とか友情とか家族とか、そういうものも言葉にとらわれない分、むしろ信じられているように思います。その意味で真雪は、言葉でないもののほうが信じられる拓人に近いかもしれません。言葉によって、その対象が歪んだり、限定されることがあまりない存在ですね。

――奈緒と真雪が対話するシーンは、言葉が噛み合わないという意味においても、とてもスリリングでした。

江國:真雪と違って、ふつう他人と言葉を交わすときに、人は本当に伝えたいこと以外に「怒り」や「優しさ」といった感情を付け加えてしまう。たとえ親しい間柄でも、なんらかの遠慮とか気遣いはあるでしょうし、場合によっては皮肉とか軽蔑の念さえ混ざることもある。逆に言えば、面と向かって「いまあなたを軽蔑しています」とは、ほぼ言わないですよね(笑)。そこでは言語化されないものの丁々発止が常にあって、親子や子供同士でも、その丁々発止が言葉によってさらに複雑化していくんだと思っています。

――読者の愉しみを奪ってしまうので詳しくは触れませんが、奇数章と偶数章では文体も大きく異なっていて、かつ作品の最後にはふかい企みがあります。

江國:連載をはじめた当初は、二つの章で時間の進み具合が不均等になってしまって、同じ日の出来事なのに章が分かれたり、何日も経過しているのに同じ章だったり、なかなか難しいと感じていました。でも書き上げて思うのは、やはり必要な仕組みだったということで、分量としては偶数章の方が長いですけれども、読み終えたときに、奇数の章が小説の中心だと感じてもらえたら嬉しい。偶数章には様々な大人たちの人生が描かれていますが、それらがすべて、ある時期の拓人にとって背景みたいなものだったと感じてもらえれば、ちょっと成功かなと思っています。

――読後、拓人の記憶を読んでいるようなイメージが残りました。

江國:今回は記憶の物語という意識はなくて、もちろん人にとって記憶は大事なものだと思っているし、その人の構成要素でもあるから、死んでも決して奪えない、墓場まで持っていけるのは記憶と誇りだけだと思っているくらいですから、この登場人物たちにとっても記憶は大切なものとしてあります。でも、むしろ今回書きたかったのは、人は記憶すら言語を介して覚えているということで、人には言語を介さない記憶というものもあると思うんですが、でも、そこには決して留まっていられない。卑下するか美化するか分からないけれども、記憶すらも言葉によって歪めてしまうところがある。それでも赤ちゃんが母親を分かるみたいに、拓人が幼稚園の帰りに通園バスから降りると、顔の特徴とか、朝に着ていた服とか、体つきとかではなく、ただ母親として認識されていて、迷うことなくそこに向かう。そういう言葉以前と以後のあわいについても、はっきり書きたかったんだと思います。

――最後に連載を終え、本が上梓されるに際して、なにか感慨のようなものがあれば一言いただけますか。

江國:最終回を迎えるひと月前に、家の中に大きなヤモリが現れて、壁にピタッと張りついていたんです。家の中でヤモリに遭遇したことなんてなかったですから、本当に嬉しかった(笑)。間もなく書き終えるというタイミングでしたから、ヤモリからの祝福だと思うことにしました。


(更新 2014/11/13 )


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