言語学を専門にしていると言うと、ときに思いもしない質問を受けることがある。「不良をツッパリというのは相撲用語から来たのですか」「踏切(ふみきり)は通るときエイヤと踏み切るからですか」「consent(コンセント)は同意するという意味の動詞なのに、なんで電源の差込口を言うんですか」など、その多くは語源に関わるものである。たいていはその場でなんとか答えられるが、それでも詳しく調べないと断定できないことが多く、中には全くの難問でお手上げということもある。

 日常生活で使う「ことば」は空気のようなものだ。普段は気にならず、意識することなく使っているが、一旦意識し始めると気になって不自然に思えて息苦しくなる。気にせず使えば日本語に疑問を見いだすこともなかろうが、ふとしたきっかけで意識しだすと、それまで透明だったものが急に妙な模様や形のあるものに見えてくる。

 中には「こんなことばは間違いですよね」と実例を挙げる人もいるが、たいていは誰かの受け売りだ。実は「間違い」と断定するのは難しい。逸脱した使い方を数パーセントの人しか使わなければ「変だ」「間違っている」と言えるが、九割以上の人が違和感なく使うようになれば、もう正用として認めるべきだろう。そして、結果からさかのぼって見るなら、最初の数パーセントの人は、ことばの変化の最先端を行く人たちでもあるわけだ。

 昔の変化なら現代人の私たちもその経緯や結果がわかるが、今生じている逸脱は、後に定着する変化の始まりなのか、定着せず誤りと見なされるのかはわからない。ことばの間違いを糾弾したい人は、専門家の見解が使いたいので、「わからない」と正直に言うと、お叱りを受けてしまう。しかし、わからないものはわからない。しかも、そういう問題はそもそも怪しくて微妙なケースが多い。

 一方で、個人的にやめてほしい表現が、あまり取り上げられることなく、世にはびこっていることもある。例えば、「うまく表せることができるよう頑張ります」などと書く人がいる。変だと思わず、気にもならないという人が多いのかもしれないが、これは「表せる」が「表す」の可能形なので「できる」という可能表現と一緒に使うと重複する。「うまく表せるよう頑張ります」か「うまく表すことができるよう頑張ります」かのいずれかにするのが望ましい。ただ、これも重複していて冗長であることは確かだが、間違いかと言われると困ってしまう。誤用の認定基準が明確に定められているわけではないからだ。

 ところが、世の中には真面目な人が多く、ことばの逸脱に厳しい人も多い。これは、教育の成果だと私は思っている。近代以降の言語教育では、国語でも外国語でも、「これは間違い」「この表現は不適切」と誤用はたいてい一刀両断に切り捨ててしまう。教えるときは、はっきり間違いと扱うほうが効率的で効果的だからだが、ことばの場合、簡単に正誤が判断できることは意外と少なく、ほとんどが正誤の中間にある。これが、ことばの悩ましさの正体でもある。

 一方、語源に関することはすべて「語源説」として扱うので言語学者としては気が楽だ。語源説の中には、単なる憶測に過ぎないものも、ほぼ間違いないと請け負えるものもあるが、いずれも同じように「説」として示される。冒頭に挙げた問にも、説として、気楽に答えることができる。「つっぱり」は「突っ張る」の連用形に由来するが、相撲の場合、相手を突いて張り飛ばすようにする動きを指す。しかし、不良の意で使う「突っ張る」は、元来「突っぱねる」ように、強く拒絶する、強硬な態度をとることに由来する。親や先生の言うことを聞かず突っ張るさまがツッパリの語源なので、これは相撲とは関係がない。

「踏切」とは鉄道の線路と道路が交差する場所である。跳び箱の前に踏み切り板を置くことがあるが、これは「勢いよく一気に踏む」ものだから、決断の意の「踏ん切る」と意味的につながりがある。しかし、「踏切」のほうは、「踏む」が跨(また)がずに同じ高さで交わることを意味し、「切る」が「横切る」ように向こうへ越えていくことを意味している。つまり、高さの異なる立体交差ではなく、地面の上に道路も線路もあって同一面で交差している点を指す。だから、通過時に踏ん切りをつけることとは関係がない。consentという英単語の意味や、「コンセント」が英語ではoutletやsocketだと知っている人は結構な英語力に違いないが、日本語のコンセントは「同軸」を意味するconcentric(コンセントリツク)が省略された形なので、両者は無関係である。昔のプラグは、今のように扁平な形状ではなく、円形が主だったのだろうと推測するが、こうなるともう言語学の守備範囲からはみ出てしまう。かくしてことばはどこまでも悩ましく、悩みは尽きることがない。