初めての週刊誌連載だった。

 この話が持ち上がったのは一昨年、2012年である。当時私は、某新聞社に勤務していた。それもよりによって、朝日新聞社のライバルである某新聞社である。

「週刊朝日」で連載が始まるタイミングで、私は4半世紀以上在籍した勤務先を辞めた。さすがにライバル誌に原稿を書くのはまずいので、けじめをつけた――というわけではなく、史上稀にみる円満退社だったのだが、フリーになった実質第1弾の仕事が、かつてのライバル誌での連載というのも、妙な気分ではあった。

「連載は体力勝負」と言われるのだが、実際にはそれほど体力を消耗せず、夏の休暇もしっかり取れた。しかし精神的にかなり追いこまれたのは間違いない。どうせならやったことのない話を、と思っていたからで、人間、慣れないことをやると疲れるものだ。

 警察小説なら散々書いているから、何が「やったことのない話」だ、と思われるかもしれないが、実はあまり書かれていない分野もある。「警察小説のサブジャンル」とでも言うべきだろうか。

 一般的に警察小説の花形といえば、やはり殺人事件などを捜査する「捜査一課」の活躍を描くものである。殺人は究極の犯罪であるだけに、捜査する側の本気、書く方の本気が交錯して、迫力ある作品に仕上がる。そもそも「ミステリ」を名乗る以上、読者も殺人事件を期待するものだろうし。昔から、刑事が主人公になったミステリといえば、題材は殺人事件と決まっていた。

 しかし私はこれまで、必ずしも殺人事件ばかりをテーマに取り上げてきたわけではない。実際、警察というのはあらゆる犯罪捜査にかかわるもので、殺人事件ばかり調べているわけではないのだ。麻薬犯罪やIT系の犯罪捜査、過激派の調査、少年の補導、と社会の闇にうごめく、あらゆる問題と対峙する。だから、「警察小説」と銘打てば、ネタはいくらでもあるのだ。

 完結した「警視庁失踪課 高城賢吾」シリーズが典型で、これは基本的に失踪人探し(展開次第で時に人が死ぬこともあったが)という、警察小説というよりは海外のハードボイルドのスタイルに近い物語群である。依頼人が探偵の事務所を訪ねてきて、失踪した家族や恋人の捜索を依頼する――というパターンをやりたかったわけだ。

 今回の連載でも「これまでやったことがないもの」、しかも「リアルにありそうなもの」として、捜査二課が扱う事件を取り上げることにした。

 本書で取り上げた捜査二課は、汚職や詐欺などのいわゆる「知能犯」を扱う。政界を巻きこんだ大型汚職は、東京地検などに持っていかれてしまうことが多いため、地方県警が摘発する汚職事件は、言葉が悪いが「地味」な物になりがちだ。しかしそこに光を当て、裏でこそこそと行われる卑怯な犯罪と、それに対する捜査を描けないだろうか、というのが最初の執筆の狙いだった。

 ところが小説というのは生き物のようなもので、作家本人でさえコントロールできなくなる時がある。今回も前半は、本来の狙いに従って、汚職の捜査という「花がない」シーンを延々と綴っていったのだが、いつの間にか別の一面がクローズアップされてきた。「人情物」としての顔である。

 元来、読み手としての私は、海外ミステリ、それも特にハードボイルドを好んできた。現代の海外のハードボイルドは、日本の一般読者が想像するような「乾いて冷酷」というイメージではないのだが、本来は――1960年代ぐらいまでは、そういう面が強調されていたのは否定できない。こういうジャンルに影響を受けて書いてきたがゆえ、これまでは意図的にウエットな部分を抑えてきたのは事実である。

 それが今回は、当初予想していたのと違って、私にしては珍しい、べたべたな家族の物語になってしまった。「父娘」関係という、普段あまり取り上げない設定によるものだろうか。

 例によって文章が簡素なので、そのようには読めないかもしれないが、個人的には限界ぎりぎりだ。事件そのものよりも、ややこしい家族の関係を解きほぐすのが、ストーリーの中心になってしまった感じもある。自分の実年齢を主人公に投影して――というのもあまりやったことがない。それ故、いつもより少しだけ、感傷的になってしまったことも自覚している。

 だから本書は、警察小説というより、家族小説として読んでもらうべきかもしれない。「堂場瞬一」としてこういうのがありか否か――判断は読者に委ねたい。