少年スポーツ ダメな大人が子供をつぶす!(朝日新書より9月13日発売)

 私が初めて「スポーツの理不尽」に直面したのは、小学三年生くらいの頃だったと記憶しています。

 町内で少年野球チームを組織し、夏休みに近所のお兄さんたちがコーチ役を買って出て、優勝を目指した練習が始まりました。しかし練習では野球らしきことはほとんどせず、ランニング、うさぎ跳びなど、苦しい体力トレーニングばかりでした。炎天下でしたが飲水は禁止でした。やがて「一口だけ水を飲んでもいい」と許しが出ました。「いいか、絶対に一口だけだぞ」と怖いお兄さんが蛇口の横で監視していました。私はお兄さんが目をそらした隙にガブ、ガブと二、三口飲むことができました。その後、どんな練習をしたのかまったく覚えていません。それほど苦しい渇きの記憶だけが強烈に残っています。

 中学のバレーボール部ではOBが訪れると決まって「気合いが入っていない」と正座と説教が待っていました。すると私たちもいつしか、それがチーム強化に欠かせない手段と思いこみ、自分たちから進んで正座して「気合いを入れる」ようになりました。やがて全員が進んで丸刈りになり(私一人が拒否しました)、互いにビンタをし合うなどという異常な行動に走ってしまいました。

 高校のサッカー部時代、女子マネージャーが試合後、飲み物とスナック菓子を用意してくれました。それを見た対戦校の上級生が下級生に「おい、ウチもああいうの用意しろ」と命令しました。下級生が息を切らせてお菓子を買ってくると、袋を開けた上級生が「なんだよ。あれと違う種類じゃないか。バカヤロウ、同じ物に換えて来い」と怒鳴り、袋をビリビリと破って丸め、下級生に投げつけました。怯えた表情で走り出た彼の後ろ姿が忘れられません。

 大学のサッカー部では数々の非科学的なトレーニングを体験しました。「相手の三倍走る」ということが監督の提示したテーマでした。ウォーミングアップで体力の三分の一を使い、心身共にピークの状態で試合に入り、試合開始と同時に運動量で圧倒し、体力が切れた後半は「気力」で持たせるとのことでした。残念ながら体力の切れた後半は相手に圧倒されていました。私たちは気力の弱い「情けないヤツ」と罵倒されました。

 この手の「スポーツの理不尽」は、競技スポーツの世界に身を置いた人なら、多かれ少なかれ経験していることでしょう。私はかねてから、そんな理不尽がまかり通っている日本のスポーツ界の特殊な環境が、スポーツを通じた青少年の健全な育成や、トップアスリートの競技力向上を阻むものになっていると言い続けてきました。

 2013年はその日本のスポーツ界の理不尽を象徴するような「スポーツ指導と暴力」の問題が注目されました。大阪市立桜宮高校のバスケットボール部顧問の暴力が原因で部員が自殺した事件が明らかになったことをきっかけに、スポーツ集団内のさまざまな暴力行為が取り沙汰されました。文部科学省や主要メディアが実施した調査などで、スポーツの現場で振るわれている暴力の実態が明らかになりました。指導者の中にはそれを肯定する人も少なくないことが再認識されました。

 一般社会ならば侮辱、暴行、傷害などで犯罪になることが、スポーツ現場では容認される。しかも、その多くは「教育」を旗印に掲げる学校のスポーツ系部活動の中で、「教育」を推進するはずの「教員」によって行われている。一方で暴力を受ける少年たちも「殴られ怒鳴られてまで教わりたくない」とは思わず、それをあたかも必然であるかのように認識して受け入れ、親たちも「殴るくらいの厳しい指導があってよい」と認めている。なぜ、そうした理不尽肯定の環境がつくられるのか。それが本書のテーマです。

 さて、「殴る指導はだめだ」と思っている皆さんも、スポーツ系部活動の絶対的な長幼の序が礼儀を身につけさせる良き方法と思っていませんか? プロ野球のキャンプ情報を伝えるスポーツニュースで、野手が泥だらけになって体力の限界までノックを受けているシーンを見て「良い練習をしている」と思っていませんか? 鉄拳制裁の指導者が選手の成果に涙するシーンを見て「やはり愛のムチだったのだ」と納得していませんか?

 このように私たち自身がスポーツに対して肯定的にとらえている感覚の中にも、実は暴力的指導につながる要因が多分にあるのではないかと私は考えています。先ほど挙げた理不尽体験の一部分を肯定するような心理が、知らず知らずのうちに深く根付いているかもしれないのです。そこに視点を据えてみることも本書の「切り口」の一つになっています。これまで「当たり前」だと思って疑わなかったスポーツ観そのものを、本書を参考に再点検してみて下さい。