『妻はサバイバー』 永田豊隆 著
朝日新聞出版より発売中

<川崎市の自宅で長男(当時37)を4カ月にわたって監禁したとして、両親と妹の3人が逮捕監禁容疑で逮捕された。長男には精神疾患があったとみられるが、医療機関は受診していなかったという。父親は容疑を認め「外に出して迷惑をかけたくないと思った」と供述しているという。(2022年2月1日朝日新聞)> 世間は精神障害者に優しくない。世間体や迷惑をかけたくないと家族だけで精神疾患患者をケアした結果、この事件のように死に至らしめたというケースは珍しくない。

 本書の著者で朝日新聞記者の永田豊隆は、精神障害者にとっての世の中の障壁について、本文でこう語っている。<それは社会の偏見であり、差別感情だと私は思う。段差と違って目に見えないが、強固だ> 私は精神疾患患者とそれを支える家族の問題に関心があり、多くの関連書を読んできた。だが精神科の医師や施設側の視点で書かれたものが多く、当事者の声はなかなか表に出てこない。その意味でも、本書は一人の新聞記者とその妻の20年にわたる精神疾患との闘いを綴った稀有な記録だと思う。精神障害者の家族の多くが、川崎の事件のようにできるだけ世間から秘匿しようとするなか、著者とその妻は、自分たちの体験を公にして悩んでいる人たちの救いになって欲しいと願った。

 永田の妻が発症したのは2002年の秋。結婚4年目、29歳で専業主婦の妻は突然大量の食べ吐きをするようになる。「食べたい」という衝動を抑えきれず、普通の食事の3倍は食べ、そのあとペットボトルを手にトイレにこもる。それを何往復もしてやっと落ち着くという異常な行動は「摂食障害」という病名が付けられた。

 私がこの病気を初めて知ったのは人気兄妹デュオ、カーペンターズのボーカル、カレン・カーペンターの死によってだった。食べたいだけ食べてあとで吐く、というダイエット方法が精神疾患であり死につながるとは思ってもいなかった。後年、スポーツ選手やファッションモデルなどの告白により顕在化するが、厚生労働省によると2017年に摂食障害で医療機関を受診した患者は約21万人とされる。

 妻の異変に気付いたのは赴任先の岡山だった。大きな事件の取材が落ち着いたあと、貯金が減っているのに気づく。頭痛、腹痛、だるさを訴え発熱し、急激に痩せていく。衰弱しきって入院してもすぐに退院を望み、帰宅すると過食を繰り返す。医師には精神科を勧められるが本人が同意しない。精神科受診のハードルは高かった。

 過食だけでなく性格も猛々しくなり、罵倒や暴力、いわゆるDVも始まった。貯金も底を尽きつつあった。

 上司に相談して仕事の負担を減らし、妻に内緒で保健所や公的相談機関を頼った結果、一人の精神科医に出会う。のちのちまで心の支えとなったこの医師は、治療を拒否する妻と会うことなく、代理の夫の話を聞いてアドバイスを授けた。代理受診という方法がある事を初めて知った。

 妻の摂食障害や暴力などの原因は幼い頃の親からの虐待にあった。過食嘔吐はその虐待からの逃げ場だったと後に告白している。詳しく書かれていないが、優秀な臨床心理士の聞き取りによって明らかにされた実態は、医師たちが驚くほど過酷なものであったようだ。

 一進一退を繰り返すなか、幻覚症状も現れる。解離症状もみられ、自殺衝動も起こった。知り合いの男にひどいセクハラを受けていた事実も発覚して、妻自身が苦痛に耐えられなくなり、ようやく精神科を受診すると決断。入院に至ったときは発症から5年が経っていた。

 一息つく間もなく、過食嘔吐のあとさらにアルコールに手が出るようになる。医師の制止も聞かず連続飲酒が始まり低栄養と肝機能障害が進む。ケアに疲れた夫も適応障害と診断され休職を余儀なくされた。ここまで読むと、よくぞ持ちこたえたと感心せずにはいられない。何もかも放り出して逃亡してもおかしくない状況なのになぜなのか。

 ひとつには記者という仕事が支えてくれたのかもしれない。凄惨な状況のなか、妻を助けるため原因を探り、医療や公的支援などを取材する第三者的な視点が彼を冷静にしたのだろう。さらに患者の保護者として日本の精神医療の問題点を実感することができたのも本書を意味のある内容にしている。精神疾患を患う患者が身体疾患の病院から断られるケースなど、現在のコロナ禍で多く起こっていたのではと推察される。拒否された家族の失望はどれほど深いか。 辛く苦しい闘病生活は、ある日終わりを告げる。思いもかけない結末に、読者は驚きとともに「なるほど」と安堵すると思う。本書を読んで身につまされる人は多いだろう。永田さん、あなたが本当の「サバイバー」だ。