人生で最優先にしてきたはずの子どもとさえすれ違い、疲れ果てて眠れぬまま朝を迎えて気合を入れてベッドから抜け出しても、感謝すらされず、体育着が生乾きであることを娘に責められる。

《私、帰りたくないんや。
 散らかった部屋。たまった洗濯物。汚れた食器が積まれたシンク。月末の支払い。大人になってゆく子供たち。努力なんて実らないと毎日ご丁寧に教えてくれる仕事。また明日も繰り返されるすべてのこと。》

 主人公がそれまで、元気に、健気に、一生懸命に生きてきたのを知っているからこそ、読者にとってはなんともつらい独白だが、主人公がこう思うのも当然だと思うような状況なのである。そしてこれは特別な状況下にいる人たちの悲痛な叫びではなく、2020年を生きる私たちにとって、そこそこよく見る地獄でもある。

 しかしながら、この孤独はなぜか不思議と爽快さをもたらしてくれるものでもあった。主人公は孤独を受け入れ、ひとりで闘うことに迷いがない。いつも冷静に自分を見つめ、愛や絆という単語を多用した美辞麗句で自分たちをごまかそうとはしない。他人に寄りかからないことと引き換えに主人公が守ったのは、自分のままでライオンのように気高く美しく生きることだろう。そこには自由の風が気持ちよく吹いてくる。

 私たちは、たとえ子どもがいるからといって、「ママ」だけの存在になってしまうわけではない。多くのファッション誌やメディアが「ママという立場をつかのま離れ、自分らしい時間を持つこと」を推奨する。それはとても大事なことだと思う。だが、その流れに逆行するように、この小説では主人公の名前は最後まで明かされず、地の文でも彼女は「ママ」と呼ばれている。主人公を「ママ」と呼び続けるこの語り手は一体誰なのか?

 ひとつの推測にすぎないが、これはママである主人公が、苦しい道のりをサバイブしながら、いつか娘たちにこの冒険物語を過去の思い出として語ることだけをささやかに夢見たゆえの、語りなのではないか。あなたたちを、私はこんなふうに育てたんだよ、と伝える語りの中で、ママは脱ぎ捨てるべき存在ではない。ママが元夫以外の男とセックスしたって、仕事の帰りにふと遠くへ行く電車に乗ってしまったって、べつにいいのだから。

 これが娘たちへの語りだと仮定するならば、この「さくら」と「うめ」の真ん中で眠るために必死に帰路を急ぐ彼女の名前は、おのずと誰にもわかることかもしれない。