物語の中盤からは、三杉がさらなる苦悩を抱え込むことになる。きっかけはかつての同僚で、今は売れない作家として細々と活動している坂崎甲志郎という男が三杉に取材を申し入れてきたことだ。認知症医療の現場を小説に書きたいという真摯な態度に心を打たれて協力を約束したものの、彼は災厄をもたらす、とんでもない男だったのだ。話を掻き回す役どころに自身を連想させる医師兼業作家を出すあたりが久坂部の巧いところで、自虐も交えて描かれる坂崎の人物像はとことん胡散臭くていい。

 久坂部以外にも今は現役医師兼業の小説家は多いが、その共通点は冷静な現実主義者であることではないだろうか。医師は患者を死なせないのではなく、ただ生の確率を上げることができるだけだと彼らは承知している。「映画やドラマでは、どんな大手術でも確実に成功する」が、実際の手術は「いつも不確定要素との闘い」であり「絶壁の綱渡りも同然だ」と本作の主人公である三杉も考えている。その重責に耐えられないからこそ、外科医の道を諦めたのだ。

 問題のある患者こそ多いが生と死の間に立たされる機会が外科よりは多くない「にんにん病棟」での日々は、三杉にとって妥協の産物であっただろう。そこで日常に流されながら業務をこなしていたところに、医師としての矜持が問われる事態が押し寄せてきてしまったのである。その意味で『生かさず、殺さず』は、かりそめの人生を送る者、本当の自分から逃避していた者が、真実に向き合うことを迫られる小説でもある。三杉の苦悩が他人事ではない切実なものとして感じられるのも、それゆえだろう。

 認知症の治療法は現時点では存在しない。誰にも発症の可能性がある、現代人にとっては最も恐ろしい病気の一つだ。その実態を伝える久坂部の筆致はいつもの通り皮肉なものだが、同時に正直極まりない。根拠のない希望など与えず、ただこういうものだと事実を描くのみなのである。誠実さゆえに悩み、理不尽な出来事に打ちのめされていく三杉は、かつての久坂部自身でもあるはずだ。現実に立ち向かうためには、まずそれを直視しなければならない。硬い添え木を当てられたように、背筋の伸びる思いがした。

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書評記事のタイトル「踊るような思考、内省するような歌」は間違いで、正しくは「背筋の伸びる『認知症小説』」です。お詫びして訂正いたします。