実際には本番でいちいち「次は……」なんて考えてはいない。身体も口もほとんど自動的に動いている。むしろ本番では、その勝手に動き出す肉体がパフォーマンスとして形骸化(けい がい か)しないよう、意識的に思考や感情を持ち込んで躍動させていく、ということの方が多い。(「無心」)

 人まえに身体をさらすことを生業としている著者は、身体と思考と感情がナチュラルに「連動」している。本書は一方で、そんな著者の躍動感あふれる思考の記録である。ただ単に、内省的に思考を深めているわけではない。その生々しい思考は、身体の営みと連続したものだ。だとすれば、「旅」をテーマにしたエッセイという形式は、そんな著者のありかたにまことにふさわしい。「旅」にまつわるエッセイを書くとは、各地をめぐって、そこで思考を深める行為に他ならないからだ。

 その身を移動させ、その地に行って、実際に見て聞いて、深く考えること。著者の言葉は、そのような身体の営みのなかから発せられている。理屈先行で考えられたものではけっしてない。そのような身体に根差した言葉が心に響く。個人的には、不登校のAに対する「学校に行かないと、学び方を学べなくなるんじゃないかな」という言葉が印象的だった(「小学校」)。多様性を重んじる著者ならば、「学校になんて無理して行かなくていいんだよ」と言ってもおかしくないが、著者の身体に根差した言葉は必ずしもそうはならない。著者の言葉は、担任教師の記憶や一日だけ不登校をした記憶を抱えた自身の身体との絡み合いから生まれている。だからこそ、その一語一語が切実なものとして迫ってくる。きっと、著者が深く受け止めたジャネール・モネイの言葉も、そのようなものとしてあったのだろう。

 本書に書きつけられた言葉は、著者のあらゆる「旅」の足跡としてある。その足跡の積み重ねこそ、地元なきシティボーイ根拠地(グラウンド)として彼を支えるだろう。「U R not alone」の歌詞ではないが、「ああどうか 力を貸してくれないか/昨日までの僕よ」といった具合に。加藤シゲアキとして歩んできた身体が、次なる言葉を探しながら「旅」を続ける。「確かな答えは 何処にもないから/探すんだ 恐れないでその足で迷っていい」(「U R not alone」)――本書はそんな、著者の思考の足跡である。