物語は、この希以が、家業の油売りから、ひょんなきっかけから茶葉を扱うようになり、実業家として成功していく様が描かれる。背景には、幕末から明治へと、日本が劇的な変貌を遂げていく様があるのだが、何よりもあの時代に、女だから、と臆することなく、風当たりの強さ――老舗の油問屋の寄り合いでの扱われ方、等々――や偏見に負けることなく、自分が信じた道を進んでいく希以の姿がいい。

 茶葉の商売を始めるきっかけとなった、頼まれた上物以外に、サンプルとして上物、中物、そして普段用の茶葉の見本を手渡すところ。さらには、そのサンプルが巡り巡って英吉利(イギリス)人の交易商人の手に渡り、それが希以の茶商いの端緒となるところ。茶葉の初の大取引の荷渡しの折、かつての祝言用にわざわざ京都で誂えた、大浦屋の花菱紋を染めさせた柿色の油箪(ゆたん)を、荷に覆いかけるところ(「ちょうど、よか」「箪笥の肥やしにしておっても、油箪に気の毒たい」)。些細なところに、希以の商人としての意気地が、あたかも爽やかな風のように匂い立つ。

 そして、そういう細部があるからこそ、希以が明治の維新の要人たち、大隈八太郎(後の大隈重信)や坂本龍馬、岩崎弥太郎を陰で支えた心意気が、よりくっきりと浮かび上がってくる。そこもまた、いい。

 希以は最初の夫と離縁してからは、生涯独身を貫いたのだが、坂本龍馬率いる海援隊の一員、上杉宗次郎(近藤長次郎)に対して、希以が想いを抱くエピソードがいい。それは、弟に対する姉のような、いつか広い世界を目指す同志のような、そんな想いであった。けれど、ある“事件”が起こり、宗次郎は切腹して、果てる。惚れたはれた、という描写は一切ないのに、胸が締めつけられるのは、希以の心の裡が、こんなふうに描かれているからだ。「宗次郎しゃん、逃げたら良かったとよ。逃げて生き延びて、海を渡ったら良かった」「一緒に大海原に漕ぎ出そうと、約束したとに」

 女性が主人公の物語にもかかわらず、恋愛要素はこの宗次郎とのエピソードきり、というのが、希以という女を十全に表していて、朝井さんの物語巧者ぶりが本当に素晴らしい。そのことで、希以は生涯を通じて商いと契ったのだ、ということが読み手の胸に、自然に収まるのである。

 物語の冒頭、夫を離縁したときに、希以は思う。「おさらばするなら、さっさと決めた方が綺麗やけん。心置きのう、前を向ける」。その言葉通り、希以は終生、前を向いて生きた。

朝日新聞出版より11月7日発売予定