ここから正子の社会への反撃が始まるのだが、その途中で彼女はある重大な気づきを得て覚醒する(ここが本作の肝であり、タイトルの由来にもなっている)。芸能事務所の面接では、七十半ばにしてセクハラにあうが、いちばん好きな映画「風と共に去りぬ」について、若い女性ADに訊かれ、スカーレットと恋敵メラニーとの友情が素晴らしいなどと話すと、ADの口から「マジカルニグロ問題」という言葉が飛びだす。これはこの映画の黒人奴隷の描き方を辛辣に評するものだ。現実にはいない「ご都合キャラ」、つまりスカーレットの乳母のような、「体格の良い黒人女性で、温かくも厳しく、彼女を見守り続け」る人物のこと。ハリウッド映画には、「白人を救済するためだけに存在する、魔法使いのようになんでもできる献身的な黒人のキャラクター」がしばしば投入されてきた、と指摘されているのだ。「ポリティカル・コレクトネス」の問題だ。この点から、現在、『風と共に去りぬ』や『大草原の小さな家』などの古典が取り沙汰されているが、今から見て差別的ととれる表現は全て抹消すればいいのか。こうした創造の根幹に関わる問題にも柚木麻子は正面から組みあう。

 正子ははっとする。その伝でいけば、世の物語には、「マジカルゲイ」もいるだろうし、つまり、自分は「マジカルグランマ」だったってことなの? 「いつも優しくて、会えばお小遣いをたっぷりくれて」「老いの醜さや賢(さか)しさを持たないキュートなおばあちゃん」……。

 正子にとって、「風と共に去りぬ」と真剣に向きあうことは、自分の偏見や差別意識と対峙することだった。正子が「ステレオタイプをなぞることは、声を持たない人々を傷つけたことになるのではないか」と考え、自分は「確かに差別に加担していた」と思い至るくだりには、とくに作者の深い思索の轍が感じられる。

 正子をとりまく(便利とばかりは限らない)人々も魅力的だ。浜田の崇拝者で屋敷に転がりこんでくる映画監督志望のニート「杏奈」、自律神経失調症で家に引きこもる夫を抱え、家計を支えつつ子育てをする「明美」、妻を亡くし幻想の世界に生きているゴミ屋敷の「野口さん」、大切な幼なじみで消息がわからない「陽子ちゃん」、そして日本の芸能界では「何もかもできすぎる魔女みたいな役ばっかり」回ってくるという大女優「紀子」……。

 さらに、『赤毛のアン』から「イヴの総て」「マッドマックス 怒りのデス・ロード」まで、海外のドラマや映画、古典文学にまで広く通じた作者ならではのオマージュもじつに楽しい。

 軽快にして強靭な批評性をもつ柚木麻子の新たな代表作の誕生を寿ぎたい。