東日本大震災があったその年、私は一度目の結婚をやめることにした。

 私には当時二歳になる息子がおり、育児ストレスと、ホルモンの乱れによる完全なセックスレスと、想定外の地震という出来事の間で自分自身が引きちぎれそうになり、子供を連れての一時避難のつもりで実家へ帰った後そのまま夫の元に戻ることは無かった。

 いつか起こると言われた地震があり(予想されていた震源とは別だったが)、あり得ないとされた原発事故があり、一番の被災地である東北から数百キロも離れた東京で多少の不便を強いられた私たちは、とにかくイライラしていた。私たち夫婦間に限らず、道ですれ違う人、飲食店の客同士、皆気が立っていたように思う。特に食品がスーパーから消えていった時など、米屋に長い列ができ、普段なら絶対消費しないだろう量の米を我れ先にと買い求め、店の人に窘められた客も見た。みんな不安だった。

 これでいいのか、この先どうなるのか、何が悪かったのか。

 そんな不安が政治やインフラの問題への視座だけでなく、人々を大きく動かしたのが、結婚への希求だった。

「絆」という文字がそこかしこに幅を利かすようになり、人は自分の生活に人との繋がりを求め出す。やっぱり独身では心細いと感じた人たちが身を固め出し、婚活と言われる結婚相手探しにそれぞれの経済活動の片手間で勤しむようになった。そしてその活動を大きく支えている結婚相談所や、携帯電話で簡単にアクセスできるお見合いサイトが震災から八年が経った今も大盛況しているのは知っての通りだ。

『傲慢と善良』では、その婚活を軸とした物語の中、全てを親の意思に委ねひとりでは何一つ決められず、他人の自由な生き方を嫉妬でしか眺められない依存的な人物像が、「真実」というヒロインにあてがわれていく。嫌悪感と同時に彼女から目を逸らすことができないのは、読む者がそこに自分の本質を見てしまうからだろう。

 ある日突然、変われる、反対側に行ける、そんなチャンスを人は待っている。できればチャンスの方から、やってきて無理やり連れ出してくれるのを待っている。物語のヒロインである「真実」のありようは、読んでいるこちらをやきもきさせるほどに運命を定義づけられたがっている。それは、誰の中にもある切ない願望だ。

 ここにはあらゆる対比が描かれている。

 独身と結婚、自由と不自由、都会と田舎、傲慢と善良。しかしそれらは、今の自分と地続きのものだ。もし対岸に行きたいなら、一歩一歩自分の足で目指すしかない。

 物語のもうひとりの主人公でもある婚約者「架」は「真実」が人生で初めて全てを賭けてもいいと思えるような、まさに外界へ無理やりに連れて行ってくれる運命の相手だった。婚活で知り合った「架」は三十代後半の今まで付き合う女性に不自由したことがない、経済力のある都会の男ではあるが、彼自身もまた四十歳を手前にいざ結婚となると婚活市場で戸惑うことになる。

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