こうした思考経路をへて、大きなウソはついてもいい、小さな間違いは出来る限り消す、という方針で作品に寄り添い続けた。衣裳や鬘に及ぶ細部の表現や、歌舞伎用語のチェックについては、担当校閲者の献身的な働きがあったことを特筆しておきたい。細部の正確さは、本当らしさへの道である。その上にそびえる大きなウソは、歌舞伎という、一般には閉ざされていると思われがちな世界を、普遍的な物語へと開く扉になる。

 演劇の世界を題材にした文学作品は、昔から数多い。演劇とそれをめぐる世界が、多くの読者にとって自明のものであったころには、最もポピュラーな題材の一つでもあった。だが今日、そうした土壌は失われている。そのような時代に、現代を代表する優れた作家が、歌舞伎という世界をどのように見るのか、そこからどのような普遍性を導き出すのか、というのが、私の密かな興味だった。

 作家は昭和三十九年から現在までの戦後史を総覧するという、壮大な視野のもとに歌舞伎を置いた。歌舞伎と芸能界が時代の波に翻弄される中には、読者自身の記憶のツボを刺激する点が多くあるに違いない。繰り返すように、モデルはなく、すべてフィクションである。だが、この大作で描破されているのは、あり得たかも知れない戦後史、存在し得たかもしれない群像でもある。ビートたけしを髣髴とさせる芸人や、いやでも「戦場のメリークリスマス」を想起する映画など、時代を画する存在は、たけしや「戦メリ」がなくてもこうして現れ得ただろう、という形で登場する。容赦のない過酷な人生は、時代の表舞台に登場する面々だけにではなく、芸の世界に生きる男たちを支える女性たちにも、幾重にも用意される。そうした周囲の辛酸とともに円熟大成の季節に向かってゆく喜久雄は、幸福だったのか、それとも、それとは無縁の境地にあったのか。

 そのような喜久雄が到達した場所には、読者もともにたどり着いてしまった、という実感があるだろう。現代のまっただ中に歌舞伎を置いた驚くべき結末は、我々が生きている場所を示し、我々が生きて来た時代を見渡して、刺し貫いているかのようでもある。

 ちなみに、喜久雄と終生のライバル俊介の才能を最初に発見するのは、早稲田大学教授の劇評家という設定である。ほとんどの設定が架空名なのに、ここだけは西北大学でもバカ田大学でもない。草稿には「ヒトが、ワルイなあ」とメモをつけて返した。そんなことも含めて、稀有な体験をさせてくれた吉田修一さんには、感謝の言葉もない。