「吉田修一が新作で、歌舞伎を扱うらしい」

 初めてそう聞いたのは四年前だろうか。「朝日新聞」朝刊で五百回に及ぶ長い連載を完走して、今年の五月にめでたく大団円を迎えた。歌舞伎に関する監修を担当した私は、入稿前の原稿を読み、疑問点や改訂案などを提示するということを足かけ二年にわたって続けたので、お産婆さんとまではいかないが、お産婆さんに頼まれてお湯を沸かすための薪を割る手伝いぐらいはしたような役回りである。とても他人事として接することができない。以下は、その薪割りの手伝いから見た、作品の出来るまでとなる。

 歌舞伎を扱うといっても、どの年代を対象とするかによって、方法は多岐に分かれる。江戸時代を描くのならともかく、今回は現代だという。昭和二十五年生まれの喜久雄少年が稀代の女形として生きてゆく物語で、終末部は平成が終わろうとする現代にまで及び、喜久雄も老境に至る。読者は、いやが応でも、奇しくも同じ年に生まれた現代最高峰の女形を思い浮かべてしまう。そこで、モデルはない、完全なフィクションであることを、徹底的に明示するのが必須と考えた。この杞憂は、長崎の博徒の新年会から始まるという予想外の展開で、吹き飛んだものと思われる。

 その上で心がけたのは、なんといっても、作家の想像力の妨げをしない、ということである。たとえば作品中には多くの歌舞伎演目が登場するが、作家が作ったフィクションも含まれている。「春興鏡獅子」を二人で演じる「二人鏡獅子」や、「土蜘」を女形で演じる「女土蜘」。こんな作品や上演方法は存在しない。だが、「娘道成寺」を二人で踊る演出なら江戸時代からあって、特に「京鹿子娘二人道成寺」と名づけられた作品が二十一世紀になって振付も演出も一新して大当たり狂言になった。そんなことを予想した者は誰もいなかった。ならば「二人鏡獅子」もありかもしれない。立役(男の役)主演の芝居を女形主演に書き換えることも数多いが、溝口健二監督の映画「噂の女」では、狂言の「枕物狂」の主役を女に書き換えて京都の茂山家に演じさせている。昭和二十九年の映画と狂言で可能だったことが、いまの小説と歌舞伎にできないはずはない。

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