本書に示される森達也の危機感は、たぶんそこに原因がある。今の日本のメディアや表現を取り巻く環境はどうなっているだろう。安倍政権やその周辺は、自分たちの都合の悪い主張をする新聞や番組を平然と批判するが、その際に決まって持ち出されるのが〈客観的ではない〉〈公平ではない〉という紋切型のフレーズだ。狡猾にも彼らは客観性や公平性というこれまでメディアが掲げてきた金科玉条(きんかぎよくじよう)を逆に振りかざすことで圧力をかける。勿論、圧力を受けたメディアの側は客観性や公平性など幻想にすぎず、誰かが公平ではないと言った時点でその公平ではないという視点そのものがすでに公平ではないことを理解しているが、そうした正論をかざして政権と喧嘩をしても経営にさしつかえるので、結局、権力の圧力に屈し、あるいは忖度して主張を差し控える。これは誰がどう見ても不健全だし、表現に携わっている者からすれば、森達也じゃなくても、こんなのはおかしいよと声を上げたくなる状況になっている。

 本書で森達也が言いたいのは、メディアは客観性の限界をわきまえたうえで、報道や表現にあたらなければならないという原則論なのだろう。映画『FAKE』の撮影で初めて佐村河内守氏と会ったとき、森は、あなたを擁護する映画にはしない、僕はあなたを利用すると事前にまず断ったという。その態度が森のドキュメンタリストとしての矜持、あるいは誠実さを示している。森は以前からカメラを向けることは暴力に他ならないと明言してきた。撮影することは世界を私の視点で、私の主観で切り取る作業であり、切り取られた被写体から見た場合、そこには他者の視点で切り取られる被害者性が不可避的に存在している。撮影すること、書くこと、視点で切り取ること。これらは正義ではなく暴力だ。何かを表現することには誰かを傷つける可能性が常に含まれているのだ。しかし、それでもメディアはその自らの原罪を認識した上で、自らの視点で事実を切り取り情報を世の中に発信しなければならない。なぜなら、たとえ真実に到達することが不可能だとしても、メディアがそれぞれの視点で事実を切り取るという営為を通じてしか真実に近づく道はないし、その道を放棄してしまえば、世界は沈黙の闇につつまれてしまうからである。

 われわれが避けなければならないこと、それは誰もが口をつぐむ沈黙の世界だ。そのために視点や表現が封じられてはならないという叫びが、私はこの本から聞こえた。