畠中恵と聞いて、まず思い浮かぶのは「しゃばけ」シリーズだろう。江戸の大店「長崎屋」の若だんなと妖怪たちが活躍するこの時代劇ファンタジーは、基本的に賑やかで楽しい小説だ。カバーイラストに描かれるキュートな妖怪たちの姿も相まって、おそらく大半の読者は畠中小説を明るくポップなイメージで捉えているのではないだろうか。

 しかし明朗で愉快なものばかりではない。暗がりに潜む得体の知れないものを覗きこみ、ちょっぴり怖い思いをする。そんな陰の魅力を持つ畠中ワールドも存在するのだ。それが「明治・妖モダン」シリーズである。

 物語の舞台は明治時代を迎えて二十年が経った東京・銀座。西洋化が着々と進む街中で巡査として勤務する原田と滝が、妖怪の仕業としか思えないような怪事件に挑む、というのが各編の大まかな流れだ。

 本書は江戸時代に妖(あやかし)なるものが実在し、明治の世でも隠れて生き長らえている、という設定になっている。これは妖怪が登場する「しゃばけ」の延長線上にある世界観であるといえるだろう。また、主人公の原田&滝の名コンビぶりをはじめ、派出所の近所にある牛鍋屋「百木屋(ももきや)」に集う常連客たちの個性が光り、「しゃばけ」同様、軽快なキャラクター小説としての顔も備わっている。

 だが「しゃばけ」の妖たちが若だんなを支えるような親しみやすい存在だったのに対し、「明治・妖モダン」に現れる妖は時に人を脅かす、恐怖の対象としても描かれる。ファンタジーでほっこり、というよりホラーのようにぞくり。そんな感覚を覚えるのが本シリーズの特徴なのだ。

 その「明治・妖モダン」シリーズの第二作に当たるのが『明治・金色キタン』である。引き続き原田、滝のバディが主役を張り、文明開化の世に起こる謎に立ち向かう。

 明治二十一年の春、原田と滝は築地の西本願寺近くにある甫峠(ほとうげ)寺跡に向かう。内務省社寺局の阿住(あずみ)と喜多という役人がその場所を訪れるため、臨時で護衛の仕事を任されたのだった。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動によって既に廃寺となったこの土地に、二人の役人は何の目的で訪れたのか。甫峠寺跡には原田たちの顔馴染である「百木屋」の常連、赤手(あかて)も何故か現れていた。不審な点が多いなか、突然古びた塔が倒壊するという事故が発生し、直前に塔内へ飛び込んだ赤手が姿を消してしまう。この事件を皮切りに、原田と滝は次々と不可解な出来事に巻き込まれることになる。

 塔内からの人間消失、競馬場での狙撃事件など、明治の風俗を背景に不思議な謎を孕(はら)んだ物語が綴られていく。

 注目したいのは一話ごとに独立した謎解き短編として楽しめながらも、読み終えると全てのストーリーが連関した長編が出来上がるという、連作形式をとっていることだ。冒頭に登場する甫峠寺跡には、実は祟りがあるという噂があった。江戸末期に村から消えた五体の仏像が現れ、恐ろしい仏罰を告げたというのだ。この仏像の謎が全体を貫く大きな柱として存在し、各短編の事件や登場人物がこの柱に向かって繋がりながら収束していくのである。

 何がどう繋がり、ひとつの物語を成すのか。無論ネタばらしになるのでここでは詳しく書かないが、こうした一見バラバラな事象が連鎖していく形式は謎解き小説を愛でる者にとっては大好物のはずだ。「明治が舞台」「連作形式のミステリ」というキーワードから、山田風太郎の『明治断頭台』を思い出すミステリファンもいるだろう。

 もう一つの注目点は、本書が廃仏毀釈運動をテーマにした小説であること。天皇中心の中央集権国家を作るために明治政府は神道による国民教化をはかり、仏教の排斥を進めた。本書の甫峠寺跡はその運動がもたらした文化の破壊の象徴であり、同時に時代の移ろいとともに隅に追いやられた妖たちの姿と似ている。「明治・妖モダン」の妖たちは恐怖の対象と書いたが、本作の妖たちは怖いだけでなくどこか物悲しい。それは廃仏毀釈という史実と重なることで、妖が近代化の犠牲者として読者の眼に映るからである。

『明治・金色キタン』は前作よりも謎解きミステリ成分が増し、おまけにちょっと切ない気分にさせてくれる小説だ。「しゃばけ」シリーズの愛読者も、そうでない方も堪能して欲しい。

 ちなみに本書からシリーズに入る読者は、原田・滝ほかレギュラー人物たちの言動に時々違和感を覚える箇所があるはずだ。もちろん、前作を読まずとも楽しめるのだが、気になった方は第一作『明治・妖モダン』を手に取ることをお薦めする。まさにキツネや狸に化かされるような思いをするはずだから。