本書は武士の高潔な生きざまを端正な筆致で刻み込んだ作者のライフワークとも言うべき一編である。作者は三作目の『銀漢の賦』(2007年刊行、松本清張賞受賞)以降、武士の精神のありようを主題として、多くの作品を手がけてきた。本書はそんな作者がさらに精神の高みを極めようと、主人公の人的造形に心血を注いで、この物語を紡いだことをうかがわせる作品に仕上がっている。

 それにしても作者の旺盛な筆力には驚嘆すべきものがある。2005年にデビューし、本書が34冊目の単行本(エッセイ集は除く)となる。いずれの作品も着想の非凡さ、題材の面白さ、構成のうまさ、歴史観の確かさ、清冽かつ端正な文体と、レベルの高さには比類ないものがある。

 実は筆者は作者のデビューのきっかけとなった「乾山晩秋」が歴史文学賞を受賞した時の選考スタッフの一人であった。目を通した時、難しい題材と真摯に向きあった書き手の居住まいの正しさに打たれた。さらに驚かされたのは二作目が『実朝の首』という異色作であったことだ。作者の引き出しの多さと懐の深さを予感させるものであった。この予感は的中した。それはその後の作品群が物語っている。

 特に本書は作者の持ち味の懐の深さが思う存分に発揮されている。舞台は小倉藩で、六代藩主・小笠原忠固の時代。藩財政はジリ貧で、1779年(安永8)に犬甘知覚が勝手方家老に就任し、財政改革を実施する。物語はこの財政改革を起点に、1814年(文化11)に起こった“白黒騒動”の顛末を描いたものである。この間、犬甘派と小笠原出雲派に分かれ、熾烈な権力抗争が展開する。

 作者はこの騒動に着目し、抗争の軋轢による過酷な波をかぶりながらも、真摯に生きようとした二人の男女を登場させ、虚構の物語を立ち上げた。ここには従来の御家騒動ものにあった勧善懲悪とはまったく違う視点が息づいている。その象徴となっているのが冒頭の場面である。物語はこの冒頭の場面を遡る形で構成されている。考え抜かれた語り口である。

 つまり、時代小説とは歴史の“場”を借りて、男たちや女たちの生きる姿勢を描いたものである。“場”を借りることで、既成の枠にとらわれない自由な発想と展開が得られる。これを詰めていけば権力者によって書かれた“歴史”であったとしても、変革の可能性をはらむものとして、捉え直すことができ、そこに面白さが生まれる。作者は権力者の作った“歴史”とは違う、存在したかもしれないもうひとつの“歴史”の可能性を読者に示せるのである。“葉室ワールド”が短時間で多くの読者の支持を受けたのは、この手法で研磨されつつ、貫かれているからである。ここに作者自身が言う《自分たちの生き方の根底を歴史の中で探ろうとして、歴史小説というのは書かれているんじゃないかな》《現代への批判を含めたジャンルとして書くことができるのが、時代小説だと思います》(「小説家になりま専科」より)という認識がこめられている。

 本書の面白さはこの手法を核として、物語が構築されているところにある。作者の関心は“白黒騒動”という歴史的事実にあるわけではなく、主人公印南新六がどう生きて、どう死んだかであり、それを菅源太郎の妻吉乃がどう見守ってきたのかにある。

 これは二人が騒動の渦中で奏でる心の歌をどう表象するかの問題となる。この点で作者は独自の小説作法を駆使する。その第一が題名である。例えば『いのちなりけり』『川あかり』『恋しぐれ』『蜩ノ記』『螢草』『霖雨』など、抒情性の高い日本語が使われており、それが主題と密接につながっているところに特徴がある。本書の『風花帖』もこの例にもれない。第二はその抒情性が日本的情緒を突き抜けて、硬質な人間ドラマへと変容する。

『秋月記』の《逃げない男になりたい》、『蜩ノ記』の《人の美しさは覚悟と心映え》、『無双の花』の《魂の片割れ》などの表現がその代表的な例である。本書では“風花”が二人の運命の象徴として使用されている。つまり、“風花”という語感にこめられているのは、二人のために奏でる作者の心の歌でもあるのだ。
《天から降る穢れなき雪も地に落ちれば泥になります。されど、落ちるまでの美しさはひとの心を慰めます》という新六のセリフがそれを体現している。これは新六の高潔な生きざまそのものなのである。作者の日本語に対する鋭い感性と、イメージ喚起力をうかがうことができる。

 そして重要なのは騒動を支配した“藩の論理”を止揚するのは、この新六の高潔な生きざま以外ありえないという認識があるからだ。本書は時代小説だからこそ書ける現代人へのメッセージでもある。