宮部みゆき作品の手触りは柔らかく、心地よい。

 それは作者が物語の登場人物の一人一人に寄り添い、心の動きを忠実に描き出そうとするからである。しかし一旦視点を変え、たとえば俯瞰する位置に立ってこの社会全体を見渡そうとするときには、宮部の筆致は一変する。たとえばドキュメンタリー・ノヴェルの文体を採用し、硬質で客観的な記述によって悲惨な事件の全貌を描き出そうとした直木賞受賞作の『理由』がそうだ。ミステリーと並ぶもう一つの得意ジャンルである時代小説では、とある地方藩を舞台に過酷な運命と対峙する人を描いた『孤宿の人』がそういう作品だった。優しさに甘んじず、時として厳しさに立ち向かおうとする強さが宮部のもう一つの魅力である。新刊『荒神』は、宮部作品の骨格と筋肉の強靭さを改めて読者に知らしめる一篇となった。

 舞台となるのは香山・永津野という東北の架空の藩である。実在の津軽・南部両藩がそうであったように、この二つの藩も戦国時代の昔に遡る因縁を持っている。香山藩主の瓜生氏はもともと永津野竜崎氏の家臣であり、その「捨て石」とまで評されて哀れまれた一族なのである。登場人物の誰もが気づかないうちに事件は起こり始めるが、その発端の一つは、並び立つ両藩のうち永津野で御側番方衆筆頭としてにわかに権勢を振るうようになった曽谷弾正が、藩政立て直しの秘策として強引に養蚕を勧めようとしたことにあった。藩の財政を支えてきた産業の一つは古代に起源を持つ金掘りだが、そこに近代貨幣経済の象徴ともいえる養蚕を導入しようとしたのだ。

 さりげなく歴史的背景を語りつつ、作者は舞台に役者たちを呼び込んでいく。その一人は永津野藩の西部にある名賀村に居を構え、小台様として敬われている女性・朱音である。実は彼女は、その昔の名を市ノ介といった曽谷弾正の妹なのである。彼女が、村の裏山で発見された怪我人を見ることで物語は起動する。それはまだ年端もいかない少年であった。背中には何かに突かれたような創傷がいくつもあり、皮膚はまるで溶かされでもしたかのように傷められていた。そして奇怪な、魚の腸が腐ったような臭い。

 実は読者は、この少年――蓑吉の身の上に何が起きたかを薄々知っている。序章において、永津野の隣・香山の山村・北二条でただならぬ事態が起きたということがすでに示されているからだ。香山藩で病のために無役となり、療養生活を送っていた武士の小日向直弥もその事実を耳にする。江戸時代、農民が納税の義務を放棄して逃げ出すことを逃散といった。大規模な逃散がその北二条で起きた、という伝聞が直弥を動かすのである。しかしこの時点ではまだ、朱音も直弥も、蓑吉が見た恐ろしいもの、村を一瞬で滅ぼした<あれ>の存在を知らない。やがて彼らは戦慄の事態を目の当たりにすることになる。

 人智を超えた巨大なもの、時に残酷な運命としてひとびとの前に立ちふさがり、滅ぼそうとするものを描くことが本書の主題である。第二章において初めて読者の前にその姿を表すもののことを、ここでは<怪物>とだけ呼んでおこう。怪物、もっと言いなれた呼び方をすれば<怪獣>か。これは宮部みゆきが初めて手がける<怪獣>小説なのである。果たしてその正体は何か。そしてどのようにしてこの世に生を受けたものか。実際に読んで確かめてもらいたいが、どんなマニアをも唸らせる本格的なものである、ということだけは明記しておきたい。それが強敵であればあるほど<怪獣>小説は盛り上がるのだ。さすが宮部さん、わかっていらっしゃる。

 2014年7月現在、ハリウッド製作の「ゴジラ」が日本に逆上陸を果たして話題を呼んでいるが、今から60年前にこの世に生を受けたゴジラは、漁船・第五福龍丸が水爆実験に遭遇して被曝被害を蒙ったという事件から着想を得たスタッフによって創造された。核実験という愚かな所業が巨大な敵を生み出してしまったのだ。人類は時に自然を制御可能と見なし、その恐ろしさを忘れてしまう。そうした軽侮が危険だということを知らしめる存在として<怪獣>は存在するのである。

 本書の舞台が東北地方に設定されているのは決して偶然ではない。かの地には東日本大震災と、それに起因する福島第一原子力発電所事故の爪痕が今も深く刻まれている。自然災害に負けず立ち向かい、今復興を成し遂げようとしている東北の人々の逞しさ、そして慢心からあり得べからざる事故を引き起こしてしまい、住民の拠って立つ大地を損なってしまった者の愚かさ。読者は、その二つを必ずや思い浮かべることになるだろう。人は強くあれ、そして優しくあれ、という宮部の祈りを本書から受け取った。