先日、五味文彦の『後鳥羽上皇』を読んでさまざまなことを考えた。目崎徳衛の『史伝 後鳥羽院』もそうだが、歴史と文学、政治と文学についてまったく新しい眼で眺めるよう促されていると思えたのである。これは網野善彦の仕事と対比するといっそう明瞭になるのだが、網野の著作がフランスのアナール派に一脈通じる民衆史の文脈で話題になったのと対照的に、五味や目崎の著作では、固有名を持った1人の人間がそれ自体ひとつの政治的な装置として機能せざるをえないその仕組が顕わになるのである。もともと人間とはそういうものとしてあると思わせられる。

 アナール派が人口統計や穀物産出高、気候変動など、それまでは無味乾燥と思われてきた資料を駆使して、かえって生き生きとした中世の姿を浮かび上がらせたことを思えば、目崎や五味の仕事はいわゆる歴史文書にのっとることが多く、その分だけ伝統に帰っているようにも見えるわけだが、そうではない。簡単に言えば、目崎や五味は、あたかも文芸批評のように文書を読み込むのであり、その読み込みの深さによって、それまでは考えられもしなかったような書き手の人間像を浮かび上がらせるのである。

 五味のこの流儀が意識的であることは、『後鳥羽上皇』に先立って『後白河院』を取り上げ、下って清少納言すなわち今回の『『枕草子』の歴史学』を書いていることからも明らかである。『後白河院』では『梁塵秘抄口伝集(りょうじんひしょうくでんしゅう)』が、『後鳥羽上皇』では『新古今集』が徹底的に読み込まれている。文書が執筆時へと差し戻され、その段階での政治社会状況、人間関係が子細に探究される。五味にはさらに先立って『『徒然草』の歴史学』があるが、年を追うごとにその流儀が強められている。

『『枕草子』の歴史学』において、冒頭から驚かされるのは、執筆のための料紙の献上者である内大臣が、従来言われていたように藤原道隆の子・伊周(これちか)ではなく、道隆の叔父・公季(きんすえ)であり(伊周左遷後に内大臣に就任)、清少納言を中宮・定子(ていし)のもとに推挙したのは藤原道長であると断定されていることである。宮仕えの年はしたがって正暦2年(991年)。

 この衝撃は強い。一条帝の時代は、道隆の娘、中宮・定子に仕えたのが清少納言、道長の娘、中宮・彰子(しょうし)に仕えたのが紫式部と、言ってみれば二分して考える癖がついているからだ。清少納言が道長の推挙で定子に仕えたのだとすれば、明るく才気煥発とのみ思われてきたその人間像はかなり違ってくる。演じていたことになるからだ。

 道隆の時代は990年からその没年の995年までであり、道長の時代は995年から没年の1027年までである。道長の威信はその後も続く。後一条、後朱雀、後冷泉とみな外孫である。定子が皇后、彰子が中宮となったのが1000年、定子はその年、女子出産後に亡くなっている。五味は、『枕草子』が本格的に執筆されたのは長保元年(999年)から2年(1000年)にかけてであろうとし、清少納言が定子の死とともにほぼ筆を折っていること、少なくとも死後の出来事はいっさい書かなかったことに注意を促している。つまり清少納言には書かなかったことが多かったのである。

 これについては、『枕草子』がなかば公的な色彩を持つものであったという五味の指摘がきわめて重要である。懐妊を祝して公季が一条帝に料紙を献上し、帝は『史記』を書写させ、中宮・定子は清少納言に『枕草子』を書かせた。史記は四季に通じ、四季を枕にした随筆集がこうして執筆された。中国との対比において強く日本の四季を打ち出すという特徴の、これが背後の事情だというのだ。『枕草子』の感性がその後の日本文化に与えた影響の大きさは、それがなかば公的な色彩を持つものとして構想されたところにあると示唆しているわけだが、それはまた道長のことがあからさまには書かれなかった理由でもあったと言っていい。清少納言にとっては定子が「公」であった。

『枕草子』の時代、中国は宋代に入って経済は隆盛を迎えていた。宋銭と禅の時代である。宋銭すなわち日宋貿易が平氏の勃興をもたらし、禅が達磨歌すなわち新古今集の流儀を準備する。文学と芸能、すなわち書くこと演じることは思いがけないほど深く「公」にかかわっている。「公」とは力である。後鳥羽院は後水尾院に、後水尾院は光格天皇に影響を与える。光格天皇の文化戦略が明治維新を用意したことは指摘するまでもない。政治と文学と言えば実存主義的マルクス主義のことかと思われるような時代が長く続いたが、いまようやく本格的に政治と文学、歴史と文学が論じられ得るようになってきたのだと思わせる。『『枕草子』の歴史学』にいたる五味の仕事はそういう時代の転機を象徴していると言っていい。