明治が遠くなるにつれ、時代小説の鉱脈としての価値も高まってくるようだ。本書の主人公たるイザベラ・バードと伊藤鶴吉の冒険コンビも、その有力な素材にちがいない。明治11年、イギリスの旅行家バードは47歳で日本の地に渡り、20歳の通訳伊藤を従えて、東北から北海道を縦断するハードな旅程を敢行した。その旅行記『日本奥地紀行』は、数種の翻訳によって、長く読み継がれている。

 バードは、日本人ですら知らない「未開の奥地」を踏破し、当時の日本人の生態について貴重な観察を遺した。旅行記を民俗学的資料として読みなおす試みもあるし、その行間に分け入って旅程の詳細を克明に再現していく実証的研究もある。また最近、塩見鮮一郎『探偵イザベラ・バード 明治開化殺人事件』も現れた。これは、バードと伊藤がその旅程の第一日目、粕壁(春日部)の宿でバラバラ殺人事件に遭遇するといった趣向。これら様々な分野からのアプローチに語られているように、135年前の「未踏の日本旅行記」の輝きは、ますます新しい。

 さて、マクラが長く、堅苦しくなってしまったが、本書『ジャーニー・ボーイ』は近寄りがたい作品ではない。バードと伊藤の「冒険」の文明史的意義はきちんと踏まえられているが、それを前面に押しだすことはなく、娯楽小説に徹している。東北への旅の前半、新潟到着までを描く。もちろん史実をベースにしているが、そこに大胆な虚構を引き入れ、時代小説の愉しみと遊びを満喫させてくれる。

 時は明治11年、首都では政府の要人が暗殺され、いまだ国家の中枢は闇の権力抗争に揺れ動いていた。そこに、未開の地に魅せられた冒険家バードが訪れた。彼女の無謀ともいえる旅行プランを無事に保証することは、新国家の面子がかかる秘密の事業となる。それに呼応するかのように、彼女の命をつけ狙う勢力が刺客を道中に送りこんでくる。

 通訳として応募してきた者のなかからバードが伊藤を選ぶ史実の話も、この闇の陰謀活劇の一端として描かれている。「虚構」の伊藤は無類の格闘家なのである。彼をバードに結びつける役割を果たすのは、これも実在のジャーナリスト。――ここまでの紹介で、なんだ、歴史のイフに引っかけた活劇か、だれやらの明治伝奇小説のテイストかと早合点する「通人」もおられよう。

 もちろん、刺客vs私設ボディガードによる静かなる死闘の連続は、ストーリーのメインであることは確かだ。だが、それだけではない。面白いのは、これからだ。活劇が読み所の一。そして、さらに、大きな読み所は、二、三とある。

 二は、東西文明の衝突。大げさというなかれ。この小文のマクラでいいかけたことでもある。バードの旅行記を読みこみ、そこに小説的想像力を加味すれば、「文明の衝突」といったテーマに行き着くのだ。

 バードは本心では伊藤を嫌っていたのかもしれない。通訳兼下男の遠慮のないものいいは、彼女の「文明人」としてのプライドをいくらか傷つけたのだろう。しかし、その感情は単純には割り切れない。本書の構成では、バードが記した文書を伊藤に読ませ、その忌憚のない意見を聞く、というエピソードがはさまれる。伊藤は知的な青年として、バードの「日本人への偏見」を批判するのだ。この議論の是非はともかく、二人の衝突する場面は、なかなか味わいが深い。長年連れ添った夫婦のやりとりのように「犬も喰わない」あほらしさが、そこはかとなくにじみ出ている。
 旅行記での彼女は、ミソスープ、ツケモノ、トウフなどに音を上げ、ノミの襲来や、物見高い村人たちの好奇の目に怒りの声をあげた。その反応の激しさに、いつも第一に直面させられるのは伊藤の役目だった。そこには、知性による対応では片づかない機微がある。

 もう一つある。三は、虚構の部分にかかってくる。彼女を狙う刺客と、護るボディガードたちのサイド・ストーリー。彼らは、どちらも御一新という時代の流れに取り残された武芸者だ。バードは「当時の日本が女性の一人旅にも適した安全な国だ」と明記している。したがって、本書の活劇パーツも、すべてバードのあずかり知らぬ闇のうちに静かに進行するわけだ。

 彼女はしばしば行動プランを変更し難路を選び、護衛の困難な状況をつくりだす。護衛の任務は彼女を護ること以上に「護られていると気づかせないこと」なのだった。このすれ違いが妙におかしい。死闘とはまったく無縁のまま、また、自分の身勝手によってボディガードたちが窮地に追いこまれるのを知ることもなく――稀代の旅行家は「絶景、ゼッケイ!」を無邪気にくりかえす。虚しさをいだいて、剣に生きることしか出来ない男たちは、背景に去っていく。その潔さもどこか滑稽で、飄々としていて面白い。